2015年09月07日(月) 18:00 39
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで勝った。しかし、矢島はクノイチの適性のアンバランスさを指摘した。
伊次郎が矢島と「カフェバー・ほころび」で語り合った翌月――。
センさんが厩舎の周りでクノイチを曳きながら「津軽海峡冬景色」を口ずさんでいた。矢島を初めて鞍上に迎えたダート1500メートル戦につづき、ダート1400メートルのコンビ2戦目でもクノイチは勝利をおさめた。さらにレース後、矢島が「次は重賞で3連勝を狙える」とコメントしたものだから、上機嫌になって当然だ。
かつて「南関東でもっとも馬の扱いが下手な男」と呼ばれたセンさんが、今や「南関東でもっとも長時間曳き運動をする男」とも言われるようになっていた。いつも演歌を歌いながら歩いているのだが、レパートリーは百曲以上に及び、しかも抜群に上手い。染みついた南部訛りのせいで、「私」が「わだす」に聴こえるのはご愛嬌。ほかの厩舎の人間たちばかりでなく、馬たちまでもセンさんの美声に聴き惚れているかのように耳を向ける。
大仲にいても、歌声で、センさんがどのあたりにいるかわかる。
「お、仙石さんが戻ってきたぞ」と、今まで伊次郎に管理馬の状態とローテーションについて質問していた記者たちが出て行った。
2、3カ月前まで、この大仲に記者が集まり、人いきれでムンムンすることなど考えられなかった。それだけに恐ろしい、と伊次郎は思った。彼らが新たにここに来たということは、それまで通っていたどこかの厩舎がガランとしているわけだから。
「先生、これ壁に掛けていいか」と宇野が手製の掛け軸を持ってきた。
「なんだそれは」
「おれたちへの戒めだ」とひろげた軸には、荒々しい書体で「好事魔多し」と書かれている。「魔」がほかの字より大きく書かれたそれは、宇野の筆によるものだ。・・・
島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆~走れ奇跡の子馬』。
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