ジョッキー通訳・安藤裕さん(4)『通訳の極意“相手のレベルに合わせて伝え合う”』

2014年09月22日(月) 12:00

おじゃ馬します!

▲安藤さんインタビューの最終回、通訳としてのポリシーに迫ります

カナダで日本人初のジョッキーとしてデビューをした安藤さん。シンガポールやマレーシアでも騎乗し、騎手としての幅を広げ、勝ち星も伸ばし重賞も制覇。ジョッキーとしてまさにこれからという時、レース中で不慮の事故に遭ってしまいます。騎手としての未来が絶たれ、一度は絶望の淵に立った安藤さん。しかし、野球の球団通訳、ジョッキーの通訳と、新たなステージで輝きと自信を取り戻しました。波乱万丈の人生、そして、様々な経験から培った通訳の極意を語ります。(第3回のつづき、取材:赤見千尋)

コミュニケーションは3秒で!

赤見 調子が上向いてきたタイミングでの怪我…、相当辛かったと思うのですが。

安藤 辛かったです。これまでの人生で一番大きな試練でした。こんなことを言ってはいけないですが、「死にたい」って思いましたもん。その日の夜も朝起きてからも「もう死のうかな」って。その時、ハッと気がついたんです。競馬場から運ばれてそのまま手術に入ったから、レースで汚れたままなんですよ。

それでシャワーを浴びさせてくれる介護の人が来たんですが、その人がね、小錦さんみたいに大きな黒人の人だったんです。「はい、行くわよ」って抱っこされて、シャワー室で真っ裸にされ…。その様子を見ていたエージェントが、「お前、何か間違いが起きるんじゃないか!」って心配するし、僕も「嫌だ。こんなところにいたら危ない。もう退院する」「そして生きる!」みたいになって。

赤見 ただ介護しただけなのにかわいそう…(苦笑)。でも、それで生きる希望を(笑)。

安藤 そう(笑)。それで、前回もお話したように、3か月でレースにはカムバックしたんですけど、足の感覚がないんですよね。さらに、怪我をした足をかばっていたせいで、今度は反対の足が痛くなってしまって。それで、日本に一時帰国したんです。その時に母が、「新聞でプロ野球の通訳募集してる。ジョッキーを辞めてそっちを受けたら」って。「バカやろう!そんな簡単に言うなよ」「まぁでも…、受けてみるわ」って(笑)。それで受けたら受かっちゃった。まさかそんなことになるなんて思ってもみないから、カナダに荷物を全部置いたままだったんです。だから、次の日にすぐにカナダに戻りました。

赤見 急展開(笑)。でも、全く違う世界から受かるなんてすごいですね。

おじゃ馬します!

▲赤見「競馬から野球という全く違う世界から受かるなんてすごい」

安藤 前に『AERA』という雑誌に出たことがあって、書類と一緒に送ったんです。母のアイデアで「これ使いなさいよ。自己PRになるじゃない」って。それを見た球団のGMが、気に行ってくれたみたいです。無事に横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入って、そこでのニックネームは“ジョッキー”になりました。

赤見 “ハッピー”から“ジョッキー”に。違う世界で戸惑いはなかったですか?

安藤 それはなかったですね。先輩の通訳さんたちが本当にいい人で。僕はこんな性格ですけど、「お前はそのままでいいんだ。守ってやるから。ただ、単独で何かをするんじゃなくて、1回言ってくれ。ダメだったらダメって言うし、ちゃんと教えるから」って。ただ「花形じゃないぞ」というのは、すごく言われましたね。

赤見 安藤さん自身も、表舞台からサポート側に変わるわけですもんね。

安藤 そう。でも、球団にいる人たちも、元選手で花形だったところから裏方に回っていますから。だって、甲子園で優勝した人とか、子どものときにテレビで見ていた人もいるんですよ。でも、・・・

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東奈緒美・赤見千尋

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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