■第29回「告白」

2015年08月31日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで勝った。しかし、矢島は気になる発言をした。


 クノイチで勝ったレースの直後、矢島が言った「厄介な問題」とは何か。

 上がりの歩様を見ながら、息の戻り、汗のかき方、首の使い方、そして目の輝きなどを確かめたが、わからなかった。

 ――簡単にはわからないから「厄介な問題」ということなのか?

 翌朝、センさんが曳くクノイチの動きを再度念入りにチェックし、獣医に内臓のほか、目や耳にも異常がないか調べてもらったが、健康そのものだという。

「若先生、なあしてそったら心配すんだ」と、センさんが訝しげに訊いた。
「矢島さんが、ちょっと気になることがあると言うんだ」
「なんだべか」
「それが、『あとで話す』と言ったきり、関西の交流重賞に乗りに行ったからわからないんだよ」
「んだば、矢島が帰ってくるのを待って、本人に訊くしかねえな」

 センさんの言うとおりだ。

 伊次郎は、宿題を出された子供のように、矢島に「正解」を提示しなくてはならないと思い込んでいた。が、考えてみれば、あれほどキャリアのある一流騎手が、実戦で騎乗したからこそ感じた難しい問題に新人調教師が気づかなかったとしても、恥じる必要はない。

 その夜、行きつけの「カフェバー・ほころび」のカウンターで、いつものカクテル「しがらみ」を飲んでいると、背後のドアがあいた。あまり表情を動かさないマスターが、珍しく驚いたような顔をした。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「おう。やっぱりここか」と、矢島が入ってきて、伊次郎の隣に腰掛けた。

「この店、来たことがあるんですね」と伊次郎。
「ああ、先代のころはしょっちゅうな。こいつは腕がいいが、愛想がよすぎてダメだ」とマスターを見て顎をしゃくった。

 マスターは苦笑しながらシルバーのシェーカーを振り、柑橘系の香りがするカクテルを矢島の手元に滑らせた。

「おれの好きなカクテル『ゆきずり』だ。この手際のよさが如才なさすぎて面白くないんだよなあ」と文句を言いながらも、美味そうに飲んでいる。

 矢島が大きなゲップをしたのを潮に、伊次郎は切り出した。

「教えてください。クノイチの問題を」

「ああ、そのつもりでここに来た」と矢島はグラスを空にし、おかわりの意味で人差し指を立て、つづけた。「あの馬は、おれが思っていた以上に、筋肉も関節もやわらかい。そうだなあ、似たタイプは――」と、矢島がかつて乗った馬の名を挙げた。すべて重賞の勝ち馬だった。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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