■第31回「交渉」

2015年09月14日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。まずは牝馬のシェリーラブが厩舎初勝利を挙げ、次に出走したトクマルは惜しい2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチで連勝した。そんなとき、馬主がクノイチを中央に移籍させようと考えているらしい、という噂が飛び込んできた。


「先生、ご覧になりますか」と、宇野の妻の美香が、エクセルをプリントアウトしたものを差し出した。

「なんだ、これは」と伊次郎。

「先生のお父様が厩舎を経営していたころから、古井戸オーナーがどれだけ預託料を滞納しているか、帳簿と伝票を20年ほどさかのぼって調べたものです」

 古井戸というのはクノイチの馬主である。

 表を見た伊次郎は絶句した。ざっと計算しただけで500万円以上も未納になっている。

 ――なるほど。これじゃあ親父が金で苦労したわけだ。

 伊次郎の代になってからも、支払いが遅れたり、半額だけ振り込まれたりということが何度かあった。

「このコピーを内容証明として古井戸オーナーの会社に送りつけましょう」と美香が強い口調で言った。彼女も今回の一方的な移籍話に相当腹を立てているらしい。

「いや、そこまですると角が立つ」
「もう立ってます!」

「まあ、そうムキになるな」と、伊次郎はエクセルのコピーを丁寧にたたんでジャケットの内ポケットに入れた。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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