2015年10月31日(土) 12:00
10月14日から26日まで、青森県八戸市のデーリー東北ホールで「久保田政子展 永遠に翔る馬たち」が開催された。「馬の画家」として知られる久保田さんが描いた顕彰馬のうち、トウショウボーイ、メジロマックイーン、ウオッカの油彩が、初めて競馬博物館の外で公開され、連日、多くの入場者で賑わった。顕彰馬の油彩のほか、一頭の馬が生を受けてから、成長し、生涯を終え、やがてまた天に帰る様を畳ほどの大きさのカンバス数枚に描いた作品などが、かつて輪転機の置かれた印刷所だったという会場の天井の高さを生かし、大胆にディスプレイされていた。
24日の土曜日には、午前と午後の部に分けてトークイベントが行われた。
午前の部は「ギャラリートーク『名馬を描く』」というタイトルで、久保田さんが7頭の顕彰馬を描いたときのエピソードや、それぞれの馬に寄せる思いなどを、私が質問者となって聞いた。
これまで1万頭以上の馬の絵を描いてきた久保田さんは、いつも、まず馬の耳から描くという。何かを怖がったり、緊張したりといった気持ちが一番表れるところが耳だからだ。そこから顔全体、体と進み、最後に筆先で目に光を入れ、命を吹き込む。そして「ありがとう、元気でな」と声をかける。
午後の部は「北奥羽が生んだ名騎手たち」というタイトルで、私が講演した。聴衆の多くが競馬をあまり知らない人だったので、ホワイトボードを用意してもらい、次のように記してから話を始めた。
・蛯名武五郎 1918.4.23 - 1970(52) ・前田長吉 1923.2.23 - 1946(23) ・佐々木竹見 1941.11.3(73) ・柴田政人 1948.8.19(67) ・柴田善臣 1966.7.30(49) (清水利章 1941.12.1(73)群馬)
上から5人は北奥羽出身の名騎手で、一番下の清水利章元騎手・調教師は、付記してあるように群馬出身だ。清水氏は、初代グランプリジョッキー・蛯名武五郎の弟弟子で、騎手時代の蛯名について私がインタビューしたときの話を紹介するため、混乱しないよう記した。なお、各人の右端の数字は年齢で、亡くなった人は享年である。
最年少ダービージョッキーの前田長吉だけが三戸郡是川村(現・八戸市是川)の生まれで、ほかの4人はみな上北町(現・東北町)の出身だ。上北町は、八戸の北30キロほど、三沢の北西10キロほどのところにあり、2005年に合併して東北町になる前は人口1万人に満たない小さな町だった。
さらに話を進める前に、以下の数字をご覧いただきたい。
・蛯名武五郎……846 ・前田長吉……42 ・佐々木竹見……7151 ・柴田政人……1767 ・柴田善臣……2191
彼らの騎手としての通算勝ち鞍である。柴田善臣騎手の数字はその前週までのものだ。
東北の小さな町から出た騎手たちが、計1万勝以上も挙げているのは驚嘆に値する。しかも、日本ダービーを蛯名が2勝、長吉と柴田調教師が1勝ずつしており計4勝。量だけでなく質も素晴らしい。
美浦・栗東の両トレセンのあるエリア以外で、これほどの名騎手が輩出している地区は、ほかにないのではないか。
清水氏によると、兄弟子の蛯名武五郎は厳しい人だったようだ。下乗り時代の清水氏が、師匠や兄弟子たちの靴磨きをしたあとのことだった。蛯名は常時減量していたので不機嫌なことが多く、清水氏が磨いたばかりの靴を白いハンカチで拭い、汚れが少しでもついたら、延々と説教を食らったという。調教で併せ馬をしたとき、未熟だった清水氏が掛かる馬を御し切れず持って行かれると、隣の蛯名に手元を鞭で叩かれた。それも、真冬の手がかじかむ季節にやられると、痛くてたまらなかったという。
柴田政人調教師は、騎手時代、プロ野球の星野仙一氏同様、ユニフォームを身にまとうと厳しい勝負師に「変身」する人だった。1990年の夏、アメリカのアーリントン国際競馬場(当時の名称)で、レース後、ジョッキールームに戻ろうとしていた柴田師に、現地のファンが一緒に写真を撮ってほしがっていると伝えたら、
「何をわけのわからないことを言っているんだ」
と睨まれた。実は、私が師と話したのはそれが初めてだった。
数時間後、日本人オーナーや武豊騎手らとともに食事会の席で一緒になったとき、先刻のお詫びをしようと名刺を渡したら、別人のように優しい口調で「こちらこそよろしく」と笑みを向けられ、驚いた。
切り替えのスイッチが自然に入るのか、意識して入れていたのかはわからないが、ともかく、「優しい柴田さん」と「怖い柴田さん」のギャップはものすごく大きかった。
2年前、寺山修司の没後30年特番でインタビューしたとき、アーリントンでのやりとりのことを持ち出してみたところ、師は覚えていなかった。ちょっとほっとした。
……といったことを、トークイベントで30分ほど話した。
ほとんどが久保田さんの絵を見に来た人だったが、なかには、私の本を手にわざわざ三沢から来てくれた人や、家に私の本を忘れてきたのでこれにサインを、と、久保田さんの絵はがきを差し出した人もいた。
滞在中、前田長吉の兄の孫の前田貞直さんのお宅で、新たに見つかった長吉の遺品も見せてもらった。
それに関しては、製造元に問い合わせ中の件もあるので、次回に記したい。
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊競馬ブック、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。netkeiba.com初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第5弾『ファイナルオッズ』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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