元地方騎手が描く夢『“ソフト競馬”で引退馬の力になりたい』

2017年04月25日(火) 18:01


北海道にいる馬と九州にいる馬が競い合える!?

 フェイスブックを始めて約1年。ここ数か月「ソフト競馬」に関する記事をフェイスブック上でたびたび目にするようになった。これはいったい何なのだろう? それが始まりだった。そこで「ソフト競馬」について「日本ソフト競馬協会」代表の福元弘二さんに連絡を取り、話を聞いてみた。

 福元さんは元々、地方競馬の騎手だった。

「騎手になるきっかけを問われたら、競馬の神様に誘われたといつも答えているんです(笑)」と福元さん。馬には全く関係のない環境で育ったが、小学6年生のある日、たまたま見たテレビに馬の走る姿が映し出された。

「メジロデュレンが勝った1987年の有馬記念でした。それを何気なく眺めていたのですけど、ものすごく嵌ってしまって、それ以来競馬が好きになりました」。騎手が職業だと知らなかった福元さんに「そんなに競馬が好きなら騎手にでもなれば」と兄は進言した。その一言で、福元さんはジョッキーを目指した。

第二のストーリー

▲中央騎乗時の福元さん(2002年新潟「稲妻特別」でクラチャメコに騎乗・15着、提供:福元弘二さん)

「図鑑などで見る動物は好きだったのですけど、触るのが苦手でした。小学1年生の時にサファリパークで、親に無理矢理曳き馬に乗せられて号泣したほどです。でも騎手になるには馬に慣れないといけないので、中学を卒業後は牧場に就職しました。それで馬が好きになりました」

 牧場を経て大井競馬場や川崎競馬場で厩務員を経験したのちに、地方競馬教養センターの短期課程へと進み、騎手試験に合格。1996年、20歳の時に川崎競馬場でデビューした。しかし騎乗数は思うように伸びず、知り合いの紹介で高崎競馬場へと移籍する。

 川崎時代よりは騎乗数は増えたものの、2004年には高崎競馬場が廃止。同時に福元さんは、騎手生活にピリオドを打った。引退後はしばらく乗馬クラブに勤務していたが、現在は馬関連の会社に勤めており、そのかたわら「ソフト競馬」の活動を行っている。

「以前勤めていた乗馬クラブで、元騎手なのだから、それに関係したイベントを開催したらどうかと言われまして。最初からモンキー乗りはできないですし、実際は競馬ごっこ的な感じのイベントでした。それがソフト競馬を始めるきっかけでした」

 最初は馬術の競技会のように、馬が集まって行う形を考えた。しかし、場所を借りるのも、馬を輸送するのもお金がかかる。実現できずに終わった。そこで考えついたのが、動画を使うことだった。

「動画ならお金もかかりませんし、どこにいても参加できます」。つまり北海道にいる馬と九州にいる馬が競い合えるということだ。

 ルールは、おおまかに以下の通り。

(1)「レース参加者」が「スタートからゴールまで、規定タイムより遅いタイムの騎乗動画」を投稿
(2) 同じレースの中で2番目のタイムだった人馬が優勝。※1番速いタイム、つまり規定タイムに1番近いタイムの人馬が最下位
(3) 規定よりも速いタイムでの走行や、走行中の停止、尻ムチの使用(肩ムチは可)の場合は失格

 そして参加馬1頭ずつの走行動画が順番に映し出され、引退した馬たちが元気に動く姿を見ることができるという仕組みだ。

「第二有馬記念」に「同窓会皐月賞」?

「昨年末に最初のレースとして「第二有馬記念」の動画を公開しました。ハルウララの主戦ジョッキーだった古川文貴さんとFacebook上で知り合いになり、参加してくれる馬を集めて頂いたり、いろいろ協力してもらっています」

 ちなみに第二有馬記念には、ハルウララ(牝21)や2005年に目黒記念に優勝したオペラシチー(セン16)などが出走。今年に入ってからは、2月Sが行われ、疾風という名で警視庁騎馬隊でも活躍したグランスクセー(1998年セントライト記念4着・セン22)がエントリーしている。

 直近で行われた「同窓会皐月賞」(4月20日動画公開)には、1998年の弥生賞で3着となり皐月賞にも出走した北関東の雄・ハシノタイユウ(セン25)や、2009年の皐月賞に出走した暁(競走馬名サトノロマネ・セン11)、女傑ヒシアマゾンの子、ヒシアンデス(牡19)、30歳の現役の練習馬で7歳の女の子が騎乗するザトペック(競走馬名トヨムラサキ・セン)など6頭の馬が集まった。

 その中で見事に優勝したのがハシノタイユウで、実はソフト競馬史上初めての曳き馬での出走だった。これによって必ずしも騎乗していなくても、駈歩ができなくても大丈夫だということが証明され、これからエントリーを考えている人馬にとっては、良いお手本になったのではないかと思う。

 ハシノタイユウに関しては、福元さんからハシノタイユウのいるホースパラダイス群馬に熱烈なオファーがあったようだ。そのあたりをハシノタイユウと長年関わってきたTAIYUMAMAさんに話を聞いた。

「現役時代のリベンジを果たしてみませんかとお誘い頂きました。タイユウは体調は心配ないのですが、乗馬を引退して数年間馬装をしていなかったですし、何より動画のアップロードの方法すらわからず、動画を投稿するのがネックでした。福元さんは皐月賞に縁のあるタイユウにどうしても出走してほしいと、ネット動画投稿の方法を一から親切に教えて下さいました」

 それで腹を決めたTAIYUMAMAさんは動画を撮影するまでの1週間、タイユウの手入れに通い、撮影日前日にはタテガミを綺麗に編み込んだ。撮影当日にも念入りに馬体の手入れをして、レースコースのゴール地点を決めるためのリハーサル2回、本番は1回で撮影は無事完了。あとはレースの公開を楽しみに待つばかりとなった。

「段々欲が出てくるもので、何とか優勝をと密かに期待していました。そしてレース公開当日は、朝からワクワク、かなりイレ込みました。こんな気持ちは、本当に久しぶりでした」

 いざ動画が公開されると、TAIYUMAMAさんはじめ馬仲間たちの狙い通りの展開となり、ハシノタイユウが優勝。TAIYUMAMAさんは「ヤッター!」と叫んでいたという。

「スタート直前にタイユウが私に『行くよ!』と言ってくれたので、安心して手綱を持ったままでした。タイユウはやってくれるのでは? と、この時に予感していました。彼は生まれながらに大きな運を持っています。競走馬としてもすぐれた能力を持ち合わせています。今回の勝利はすべてタイユウ自身の大きな力によるものです」

 そして続けた。

「今回の同窓会皐月賞への参加は四苦八苦しましたが、大きな幸せを感じることができました。出走して本当に良かったです。同時に引退競走馬達のために少しは力になれた様にも思います。オファーを下さった福元さんにも心から感謝です。ともに引退競走馬のための活動をしてきた同志として、ソフト競馬さんがどんどん発展してくれればと思います」

第二のストーリー

▲ハシノタイユウ、誕生日の撮影でプレゼントがいっぱい(提供:TAIYUMAMAさん)

 高崎競馬が廃止になった時、たくさんの馬が行き場を失った。

「自分も何かしたいと思いながらも、何もできなかったですからね。だから競馬や乗馬で頑張ってきた馬たちへの恩返しをしたいです。自分が騎手の時に、馬たちには申し訳ないことをたくさんしたという気持ちもありますので、そういった意味でも恩返ししたいですね」

 福元さんのこの思いが、ソフト競馬の根底にある。そして乗馬クラブに勤めた経験で、競馬場にたくさん来るファンのうちの10人に1人でも乗馬に興味を持って始めてくれれば、乗馬人口も増え、馬の需要が増えるということにも気づいた。競馬が好きで乗馬を始めた人のために、競馬に関係したイベントがあれば喜ばれるのではないかというひらめきも、ソフト競馬にも繋がっているようだ。

 最後に福元さんに今後の夢を聞いた。

「まずはソフト競馬の普及ですね。いちいち説明しなくてもわかってくれるよう、そしてこちらからお願いしなくても、人馬がどんどん参加してくれるようにしたいです。あとはプロのジョッキーにも参加してもらったり、実際に人馬が集まる形でも実施してみたいですね。

大きな大きな夢としては、プロ化できれば…。ソフト競馬で賞金が出せて、その賞金で引退馬を養っていけるようになればと考えています。そして最終的にはサラブレッドの殺処分ゼロ。これは僕が生きている間には無理だとは思いますけど、ソフト競馬も含めて引退した馬たちの活躍の場が増えていってくれればと思います」

【ソフト競馬HP】

https://www.soft-keiba.org/

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佐々木祥恵

北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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