2008年10月21日(火) 23:50
本番と同じサンタアニタで9月27日に行われた前哨戦G1グッドウッドSを快勝したウェルアームドが、登録はしたもののクラシックを第2希望とし、ダートマイルを第1希望にするというサプライズがあったものの、それ以外はほぼ想定されていたメンバーで争われることになるBCクラシック。ヨーロッパから3頭、日本から1頭の参戦があって、顔ぶれの多彩さという点ではレース史上でも最も充実した戦いとなりそうだ。
最大の鍵は、プロライドというブランドの人工素材を用いたオールウェザートラックで行われる点にあることは、言うまでもない。
ダートの王者がカーリンであることは、自他共に認めるところである。だがそのカーリンは、これまで走った15戦のうち14戦がダートで、1戦が芝。オールウェザートラックで競馬をした経験は一度もない。前走(9月27日のジョッキークラブGC)の翌日にサンタアニタ入りし、10月13日に5Fから追われて、この日同じ距離を追われた54頭の中では4番目に速い59.12秒という時計をマーク。オールウェザーでもダートと同じパーフォマンスが出来るとの確信を得た陣営から正式な出走表明があったわけだが、お稽古と実戦は別物である。
ダートよりは芝に近いと言われるオールウェザートラック。私には、芝に挑んだ7月のマンノウォーSで、道中良い雰囲気で行っていながら、瞬発力に欠ける競馬っぷりで2着に敗れた場面が、思い出されてならない。しかも近走をみると、レース振りにズブさが見られるようになっているカーリンである。勝てばあっさりだろうが、勝負どころでもたついて、入着はするも勝てずという場面もあると見ている。
オールウェザートラックにおける実績を重視するなら、筆頭に挙がるのはゴービトゥイーンである。8月にデルマーで行われたG1パシフィッククラシックを快勝したのをはじめ、オールウェザートラックは6戦して3勝、2着3回と、ほぼ完璧な戦績を誇っている。
ただし、これだけのメンバーを相手に、しかもフルゲートという多頭数を敵に回して、後方から追い込むというこの馬のパターンが通用するかどうかは微妙だ。
カーリンが負ける場面を想像した時、早めに抜けだした馬を捉まえ切れずというパターンが最も考えられるのだが、だとしたら、カーリンに後塵を浴びせるのはこの馬ではないような気がする。
評価が難しいのが、ヨーロッパ勢だ。10月4日にキーンランドのオールウェザーを舞台に行われた2歳G1ブリーダーズフューチュリティを、英国から遠征したスクエアエディーが楽勝した場面を見ると、ヨーロッパ勢にとってオールウェザートラックは、克服すべき障害ではなく、彼らを利するファクターにすらなる可能性がある。もしそうなら、中距離G1・5勝のデュークオブマーマレイドが楽勝してもおかしくはないのだが、如何せん、走ったことがないのだから、全く逆の目が出るケースも想定しておくべきだろう。印としては、典型的な単穴タイプだ。
ヘンリーザナヴィゲーターとレイヴンズパスは、オールウェザーが初めてなだけでなく、マイルを越える距離を走るのも初めてというのは、少しハードルが高すぎる気がする。
オールウェザーを上手にこなし、なおかつ先行力もある馬となると、カーネルジョン、カジノドライヴの3歳2騎がこれに該当する。
カーネルジョンは、4月にサンタアニタで行われたG1サンタアニタダービーの勝ち馬。前走のG1トラヴァーズSも3、4番手で折り合い、早めに抜けだす競馬で2度目のG1制覇を飾っている。
一方のカジノドライヴ。春に負った挫石の影響が長引き、調整に手間取って当初の予定よりは2週間以上遅れての現地入りとなったが、10月12日にサンタアニタで行われた一般戦で試走を済ませることが出来たのは大きい。主催者と協議をして、最適と思われる日にちに条件の合うレースを組んでもらい、なおかつ、不成立を懸念して地元マスコミには「本番直行」と言い続けた陣営の用意周到ぶりには、さすが海外遠征に慣れた藤沢和雄陣営であると、敬服する思いがする。
相手は強いが、チャンスは充分にあると見ている。
それなのに、である。勝てば歴史的快挙となるレースに、日本馬が有力馬の1頭として出走するというのに、生中継をしてくれる局がないというのは、非常に残念である。ファンの皆さんには、インターネットを通じて声援を送っていただきたいと思う。
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合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。