2009年01月06日(火) 18:35
明治43年より始まったとされる浦河の騎馬参拝が今年で100年目を迎え、新春2日、盛大に行なわれた。
晴天と微風、そしてこの時期にしては例年と比較するとかなり温暖な絶好の気象条件に恵まれ、参加した29頭(乗用馬17頭、ポニー12頭)は101段ある浦河神社の石段を3組に分かれて次々と駆け上がり、人馬の無病息災を祈願して100年目という節目の記念行事を無事に終了した。
その昔、町内西舎(にしちゃ)に拓かれた日高種馬牧場(現・JRA日高育成牧場)の敷地内に建立されていた西舎神社に騎馬でお参りしたのが、この騎馬参拝の起源とされている。
以来、ちょうど今年で100年目となったわけだが、おそらく戦中戦後の混乱期には中断していた時代もあるものと思われる。「浦河町史」によれば、現在のように乗用馬が隊列を組んで西舎神社から浦河神社までの道のりを延々と騎馬で進み、石段を馬で駆け上がるような現在の形式となったのは戦後のことらしい。
さらに近年は乗用馬に加えて、ポニーに騎乗した子供たちが騎馬参拝に参加するようになって、参加頭数が一気に増えた。今年はとりわけ100周年でもあり、例年よりも多くの人馬が石段駆け上がりに挑戦し、境内に詰めかけた約700人の参拝客から盛んに拍手を浴びていた。
なお100周年を記念して、昨秋より、浦河町出身の洋画家・伏木田光夫氏(札幌市在住)に、西舎と浦河の両神社に奉納する絵馬2点の制作を依頼してあり、この日、それが一般公開された。縦70cm、横140cmという大型サイズのこれらの絵馬は、赤い色の方が牡馬、白い方が牝馬で、騎馬参拝の後、正式にそれぞれの神社に1点ずつ奉納された。
午前10時45分。浦河神社に乗用馬の隊列が到着したところで、関係者が石段下に集まり、神事が行なわれた。すでに境内には多くの参拝客が、石段駆け上がりの始まるのを待っている。
11時を少し回った頃より、ようやく最初の組が上にある社殿に向かって石段を上がり始めた。17頭いる乗用馬は、一度に上がり切れないため、2組に分かれての駆け上がりである。もともと浦河は港から発展した町であり、海岸近くまで迫った海岸段丘の斜面を利用して石段が設けられ、社殿はこの石段を上り切った場所に建立されている。石段の両側は雑木林で、そもそもが馬による参拝を前提に作られてはいないので、境内は狭く、多くの馬が滞留するスペースなどないのである。
そのために、今年は3回に分けての駆け上がりとなった。8〜9頭程度ずつ乗用馬が2回、そしてポニー12頭が3回目にまとめて元気よく101段の石段駆け上がりに挑戦した。
人馬は、上の社殿まで上がると、それぞれが騎馬のまま賽銭を投げ入れ、お参りをする。1つのグループが全てお参りし終わった後、今度はゆっくりと石段を降りて行く。
上りよりも下りの方が難しく、恐怖心を感じるのは人間も馬も同じこと。今年も怖気づいてなかなか脚を踏み出せない馬が何頭かいて、ハラハラさせられた。
そんなことから上りに比べて下りは、何倍も時間を要する。1つの組が全馬無事に石段を降りる度に、参拝客から期せずして拍手が湧き起こるのも例年の光景である。
今や観光行事とまでは言えないまでも、100年の節目を迎えて曲がりなりにも伝統行事として定着した感のあるこの騎馬参拝だが、もちろん参加者は全員がボランティアである。伝統を守りさらに今後も続けて行くために、これから何が必要だろうか。浦河に馬がいる限り、この行事は絶やすべきではないと個人的には考えているが、それにはまず縁の下でこの伝統行事を支える多くの協力者が何をおいても不可欠である。
ともあれ、近年は、ポニーに騎乗した多くの子供たちが嬉々として石段駆け上がりに挑むようになり、その姿を間近で見ていると、何やら明るい未来が拓けているような気にもさせられる。未曾有の不況と言われる中で明けた2009年の新春だが、いかにも馬産地らしいこの行事をなくしてはならないと改めて強く感じた。
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田中哲実
岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。