2009年12月08日(火) 00:00 0
先週、この欄で簡単に触れた通り、新春2日恒例の「浦河神社騎馬参拝」は、ついに来年、休止することとなった。正確に表現すると、騎馬参拝自体は実施するが、騎馬による浦河神社101段の石段駆け上がりは、なくなる。代わって、騎馬参拝発祥の地である西舎神社(浦河町西舎)への参拝を来年1月2日に実施する。いささか、どころか、大幅なスケールダウンは否定できず、まったく別物と表現せざるを得ないような行事になり果ててしまうことになった。
再度、経過について概略説明をしておく。10月下旬、来年1月2日の騎馬参拝実施に向けて、従来通り事前に騎馬参拝実行委員会(会長・三枝剛氏)事務局が浦河神社に事前の挨拶をするべく赴いた際、宮司のS氏より「氏子の希望により、正月三が日を外して実施して頂きたい」と伝えられたことに端を発する。
先週も書いたように、約1年前の今年1月2日には大々的に「騎馬参拝100周年」を祝ったばかり。よもやここで突然、日程の変更を迫られる事態に直面しようとは全く予想していなかった事務局は、急ぎ神社側の意向を持ち帰り、実行委員会内部で善後策を協議することとなった。
日程変更の提案は、ほとんど「寝耳に水」に等しく、現実問題として三が日を外しての実施はかなりの困難を伴う。何より衝撃的だったのは、神社側が「三が日は一般の参拝客を最優先させたい」がための措置である、と言われたことであった。騎馬参拝が、むしろ参拝客を集めることに寄与こそすれ、よもや一般参拝客にそこまで多大な迷惑をかけている、などとは思ってもみなかったことであり、明らかに神社側が騎馬参拝に対して難色を示していることがはっきりと伝わってきた以上、無理を通してまで強行できない、という意見に傾いた。
一方、内々に浦河町役場も動き出し、関係各課の課長クラスが数回個別に神社側と水面下の折衝を重ねて、貴重な伝統行事であることを縷々説明しながら、従来通りの1月2日実施を願い出た。実行委員会側と神社側とが直接対話するのではなく、いわば町役場が仲介する形で、間に入り調整役を買って出たのである。
都合三度、町役場は神社側と交渉したが結論は変わらず、先方はあくまで「三が日を外してくれ」の一点張りであったと聞く。
それを受けて12月9日、騎馬参拝実行委員会は再度臨時役員会を開催し、来年の騎馬参拝を最終的にどうするかについて話し合うことになった。神社側の意向が揺るがぬ以上、2日に浦河神社へ赴いての石段駆け上がりは実施できようはずもなく、ついに来年は、これまで出発点ともなっていた西舎神社での参拝で終わらせる結論に達したのである。
西舎神社は、石段もなく、林に囲まれた中に小さな社殿があるだけだ。ここまで騎馬隊は6~7kg程度の道のりを進んで行くことになるが、見どころは乏しい。騎馬の隊列が続くだけのことで、とても絵になる行事とは言い難い。
確かに危険を伴うものの、騎馬参拝は、浦河神社の石段を人馬が駆け上がるところが最大の見せ場で、だからこそ当日は、寒い中を多くの参拝客がその様子を見守っていたのである。
結局、神社側からは、歓迎どころかむしろ迷惑行為として受け止めていた、と言われたに等しく、それならば、無理矢理押しかけて強行するわけには行かぬ、と実行委員会側が折れる形で一応の結論が出た。
三が日を外してくれたらいつでもOK、というのが神社側の意向だが、私見によれば、それは体よく断る口実であろうと考えている。4日以降になると、全ての面で物理的に難しくなることは前回触れた通り。まず交通量が激増し、規制が困難になる。そして、待機場所の確保も難しくなるし、何より参加する側にも都合のつかない人間が出てくる。従って、新春2日以外の実施は不可能なのである。
それにしても、未だに腑に落ちないのは、本当に浦河神社の氏子たちが2日の騎馬参拝に対して強く反対しているのだろうか、ということと、こんな大事な問題をなぜ10月下旬になるまで神社側が実行委員会側に伝えずに黙っていたのか、ということである。
神社側の説明によれば、氏子の総意として三が日の騎馬参拝実施は見合わせて欲しい、という意見だったそうだが、もしそれが本当ならば、100年も続いてきた伝統行事に対して氏子たちは積年の恨みつらみが蓄積していたのだろうと推測できる。
そこまで嫌われていたとすれば甚だ意外な感に襲われる。なぜもっと早く言ってくれなかったのか、という不信感を抱かざるを得ない。
ともあれ、こうして伝統行事が一つ、全く異なる形になろうとしている。何とも残念と言う以外にない。
田中哲実
岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。