2009年12月15日(火) 17:30 1
予定していた取材ができなかったので、内容を変更し、今回は一冊のミステリーを紹介しよう。
「競馬界を揺るがす史上最大の陰謀!」と帯に大きく書かれた永橋流介氏による長編である。幻冬社刊。
ストーリーは、かなり入り組んでいるが、簡単に言うと、ある競走馬を巡る不正の事実を追う藤木というライターが殺された事件を追って、JRA職員(広報センターで雑誌の編集に携わる)が東京から北海道に飛び、各地を訪ね歩くうちに徐々にその概要が知れてくるというお話だ。
かなり荒唐無稽な内容だが、一応現地取材はしてきたようで、実際の地名や日高の生産牧場が厳しい状況にあることなどがそのまま伏線として使われている。名前こそもちろん変えているが、社台グループと思しき牧場もかなり早いうちに登場するし(作品中では天王ファーム、となっている)、日高のいくつかの牧場もそれと対比される形で出てくる。
スリルとサスペンスに満ちた展開で一気に読ませられるのだが、しかし、どう考えても腑に落ちない部分が随所に見られるのも事実で、その違和感は最後まで払拭できなかった。
まず「博労」という職業の名称について。作中ではもう一つの「馬喰」という字を充てているが、それをどういう理由からか、作者は「まぐい」と読ませている。それも一人だけではなく、複数の登場人物に、だ。
日高で長いこと生きてきた私だが、
「まぐい」などという呼称を用いる業界人は皆無である。ここは単純に「ばくろう」でなぜいけなかったのだろうか。丁寧にルビまで振って「まぐい」と読ませるからには、それなりの作者の思いやこだわりがどこかで説明されていなければならないが、ついにそういう箇所は見当たらなかった。とすると、これは単純な勘違いということになるだろう。
さらに、生産牧場で繋養されている繁殖牝馬の飼養形態についての説明部分。作者はこう書く。「預託は馬主が自分の所有する繁殖牝馬を牧場に預け、労賃、飼料代、種付け料などのすべての経費を預託料という形で負担する」。これもいくらか違和感のある説明だが、まだいい。(種付け料は預託料の中に含まず、馬主が別途支払う)
問題は次の部分だ。「仔分けは、繁殖牝馬は馬主の所有で、あとの経費は馬主と牧場が折半する。その代わり、仔馬が競走馬になった時、賞金も馬主と牧場とが分け合うシステム」と作者は説明する。
これは明らかな間違いである。仔分けとは、私の理解によれば、馬主が所有する繁殖牝馬から生まれた産駒が1歳秋(場合によっては当歳の離乳時)になった時、双方の合意による評価額で馬主が引き取るシステムを指す。稀に、市場に上場される場合もないわけではないが、その場合は落札金額を折半するのが普通だ。
断じて、「賞金も馬主と牧場とが折半する」ことなどあり得ないのである。だいいち、牧場が馬主資格を有しない場合に競走馬を馬主と共有すれば明らかに「名義貸し」であり、競馬法に抵触する。
全体にこういう部分が目につき、気になってしょうがなかった。
主人公はJRAの広報センターで雑誌編集に携わる39歳の男性という設定だ。JRA入会以来16年ののキャリアだそうである。だとするならば、千歳空港近くに広がる「天王ファーム」を始め、日高の各町もおそらく何度となく訪れていることになろう。事実、主人公が天王ファームには年に数度訪れ取材している旨の記述がある。それと比較すると回数はもちろん少なくとも日高にだってこれまで何度となく来ているはずだ。
しかし、どうも描写が「初めて生産地を訪れた旅行者のような視点」なのである。例えばこういう部分。主人公が浦河にやってくる場面だ。
「しばらく行くと、それまで道沿いに並んでいたどこか侘しげな家々に代わり、突然真新しい市街地が目の前に現れた。パステル調の色で外装された商店は、どこも新築らしかった。日高のほかの町とのあまりの違いに、どこかのテーマパークの一画に迷い込んでしまったような錯覚があった。町の規模は静内とそう変わらないようだったが、閑散として寂しげな静内の町とは比べようがないほど華やいだ雰囲気があった。道路も広く新しい。恐らく、拡張工事の際に、住人にかなりのカネが落ちたのだろう」(208頁)
これは紛れもなく初めて浦河を訪れた主人公の視点である。しかも主人公はその後、目的の牧場の場所をわざわざ郵便局で聞いたりしている。
単なる競馬ファンで初めて日高にやってきた人間ならばともかくも、JRAの広報センターにいるキャリア16年の職員という設定で考えたら、いささかお粗末なのではあるまいか。まして「住民にかなりのカネが落ちたのだろう」などとわざわざ作者に言わせる理由が分からない。それこそ、余計なお世話である。
まだまだ突っ込みどころがあり、全体に取材不足の印象を払拭できない。筆力があるだけに何とも惜しまれる。
田中哲実
岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。