2010年01月26日(火) 23:50
いささか旧聞に属するが、1月11日から15日まで、アメリカのケンタッキー州で「キーンランド・ジャニュアリーセール」が開催された。一般景気低迷の影響をダイレクトに受けて冷え込みが続く北米の競走馬市場だが、年が改まって催される初めてのメジャーなセールがどんな動きを見せるか、例年以上に注目された中で迎えた開催だった。
結果は、総売り上げが前年比23.0%ダウンの2,389万ドル、平均価格が前年比11.7%ダウンの24,333ドル、中間価格が前年比20%ダウンの8,000ドル、昨年21.3%だったバイバックレートが今年は27.0%と、全ての指標が大きな下降線を示して終わった。
近年、各国各地域の市場で見馴れた数字で、つまりは前年割れの程度として特段驚くには値しないものとなったが、現地に赴いた日本人の言葉を借りれば「同業者としていたたまれなくなるほど」現場は深刻な雰囲気であったという。というのも、このジャニュアリーセールに関して言えば、前年(09年)が前々年(08年)に比して、総売り上げが53.4%ダウン、平均価格が48%ダウン、中間価格が44.1%ダウンという壊滅的数字に終わっていただけに、「まだ下があったのか?!」というのが、関係者の正直な反応だったようだ。
今年の数字は、好調だった06年・07年あたりに比べると市場のパイとしては3分の1に縮小したことになり、時代をさかのぼれば90年代半ばまで、時計の針を15年も戻した頃と同じ規模になったのだから、北米生産界が沈鬱なムードに包まれるのも当然である。
北半球は春の繁殖シーズンを迎えているが、景気の低迷は各牧場から発表された種牡馬の種付け料にも如実に表れている。
2010年、北米で最も種付け料の高い種牡馬は、10年連続でリーディングサイヤーランキングトップ10入りを果たしているレーンズエンドのエーピーインディー、欧米両大陸でトップホースを出し続けているスリーチムニーズのダイナフォーマー、ゼニヤッタやストリートセンスといった大物を出しているダーレーのストリートクライの3頭で、価格は15万ドルだ。
1年前、09年の公示価格を見ると最高はエーピーインディーで、価格は30万ドルだった。
更に1年遡ると、08年はエーピーインディー、ディストーテッドヒューモア、ストームキャットの3頭が、30万ドルで横並びであった。その08年、公示種付け料が10万ドルを超えた種牡馬は14頭を数えたが、09年にはこれが12頭に減り、10年は7頭と、2年前の半数になってしまったのである。
下落が更に顕著なのが、10年が初供用となる新種牡馬の価格設定だ。
10年に種牡馬入りする馬の中で、種付け料がも最も高いのは、西海岸の短距離戦線をリードし、3つのG1を手中にしたゼンセーショナル(父アンブライドルズソング)で、価格は2万5千ドルだ。昨年のケンタッキーダービー2着馬パイオニアオヴザナイルが、2万ドルでこれに続く。
皆様も御存知のように、北米競馬も昨年はゼニヤッタやレイチェルアレグザンドラといった牝馬に席巻され、つまりは牡馬のレベルが低く、今季から種牡馬入りする馬に大物がいないことも確かである。だがそれでも、新種牡馬の最高値が2万5千ドルというのは、びっくりするような安さである。
過去と比較すれば、09年のトップはカーリンで7万5千ドル。08年もストリートセンスの7万5千ドルがトップだった。それ以前は、06年のゴーストザッパーがいきなり20万ドルという設定でスタートしたのをはじめ、新種牡馬のトップが10万ドルを超えた年が4年続いていた。
それでは、ゼンセーショナルの2万5千ドルはいつのだれに匹敵するのかと言えば、1996年に種牡馬入りした馬の中で最高値だったタバスコキャットと同じ金額なのである。つまりは、14年振りの安値なのだ。
コラムの前段でジャニュアリーセールの市況をお伝えした際、市場の規模として90年代半ばと同じと報告したが、新種牡馬の価格設定も、ぴったり同じ90年代半ばまで時計の針が戻っているのである。
これは決して偶然なのではなく、要するにアメリカの競馬産業全体が、15年前に近しい状況なのであろう。別の見方をすれば、今年の種付け料の設定は、市場全体の規模に応じて適切にアジャストされたものとも言えそうである。
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合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。