つれづれなるままにと述べると

2010年05月12日(水) 00:00

 つれづれなるままにと述べると、所在なく一人淋しく映るが、徒然草では、つれづれこそよしと記されている。生を楽しみ、心を穏やかにいるには、ただ一人、純粋に自分の心だけであるがままなのがいいと言うのだが、確かにそう感じることがある。

 世の中に従うとどうなるであろうか。

 この心が外の塵に奪われて惑いやすくなっていくというのだが、こう実感することも多いのが事実。さながら心ここにあらずで、人の言にすっかり心を奪われていて、自分は一体どこに行ってしまったのか、平穏な状態ではなくなっているのだ。

 挙げ句の果て、ある時は訳もなく喜ぶこともあっても、またある時は、恨み骨髄にとなっている。心の揺れ動く有り様はどう仕様もなく、安定することはない。

 分かりやすいのが、競馬の予想だ。ただ一人の自分の心のあるままにがいいのであると、これまでどれぐらい繰り返し思ってきたことか。人と戯れてあれがいいとかこれがいいとか言い合い、それが争いごとになったりしたときの空しさ。やたらに思惑ばかりでものを言って、ばたばたと心騒がしく、すっかり自分をなくしていること、この競馬シーズンにありそうではないか。

 他人の言に逆らってはならないというこの心穏やかな良い面こそ、この場合、最大の欠点になってしまうから、競馬を楽しむのであれば、一人純粋に自分の心だけでいることがいいのである。

 競馬で他人と交わるときは、気を取られて本心を失うことのなきよう、心して取りかからねばならない。たかが競馬なのだが、ここには生き抜くための教訓があり、生を楽しむ真実があると思う。

 特にここしばらくは、あれこれの考えがやたらに起こって、得失の思惑が止むときがないだけに、所在なくともつれづれこそいいと肝に銘じておきたい。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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