2011年03月24日(木) 00:00
旅路の途中で自分がたった一人だということに気づいたとき、人は言葉を友人に持ちたいと思うと、詩人で競馬ファンでもあった寺山修司は書いていた。また寺山は、何かをあらわすために用いられる言語は、何かをかくすためにも用いられるとも。言葉の持つ力は実に様々だ。その時々で如何様にでも使うことが出来る。
その言葉は、その使い方で人柄を端的にあらわすこともあるから油断できない。なんだあの言葉遣いはと感じること、身に覚えがあるのではないか。言葉の乱れを嘆くのにも疲れてしまっているが、それでも、丁寧で上品できっちりしたしゃべりに遭遇するとほっとする。被災地の高齢者の女性が、マイクを向けられてこたえるときの言葉遣いが、実にきれいなのには、幾度となく心を動かされた。
こんなに美しい話し方をされる方がと、近頃のテレビから流れてくる言葉にすっかり汚されていたので、はっと気づかされるのだ。
言葉遣いから感じるその重みを、もう一度見直すとき、そんな風に思う。それと同時に競馬放送でも、以前はその言葉遣いに気をつかっていたことを思い出した。
他を気遣うのは、この世を生きる人に共通した心の持ち方なのだが、それは競馬放送にだってある。勝ち負けがはっきり結果として出るのが競馬だから、その扱い方には神経を使うのが当たり前と考えていた。放送は全ての立場の人に等しく届けられるので、とても無神経ではいられない。ごく少数の人間であっても、不快な思いをさせてはならない。そのためにはどう放送したらいいのか。
例えばレース実況を終えた瞬間、どれだけの人が気を落としているか。この紛れもない事実を無視してはいられない筈なのだ。
その瞬間のひと言、それを友と感じてもらえたら、どんなに素晴らしいことか。言葉を駆使する立場にあるのだから、それを追求するのが使命と、ちょっと気取ってみた次第。
バックナンバーを見る
このコラムをお気に入り登録する
お気に入り登録済み
お気に入りコラム登録完了
長岡一也「競馬白書」をお気に入り登録しました。
戻る
※コラム公開をいち早くお知らせします。※マイページ、メール、プッシュに対応。
長岡一也
ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。