競馬に対する自分なりの哲学

2011年07月14日(木) 12:00

 人生には、答えは無数にある。しかし、質問はたった一度しか出来ない。これは数多くの名言を書き残した寺山修司の言葉だが、ひと昔前、この寺山の影響を受けて競馬周辺の仕事をするようになった者が多かった。

 寺山には、競馬と人生と結びつけた心に残る著述が多くあり、その影響力は大きく、競馬を語る上でよく引用されていた。今では身近すぎて、誰が言ったのかに思いをめぐらすことはなくなったが、競馬をこんなふうにとらえていた人間がいたということは、この時代だからこそ、知っておくべきではないか。

 多くの著逑の中でも、競馬ファンならこの一冊、「馬敗れて草原あり」を是非読んでもらいたいと思う。

 その中のよく知られているくだりを書いてみると、こうだ。

「競馬は人生の比喩だと思っているファンがいる。彼らは競馬場で薄っぺらの馬券のかわりに自分を買うのである」

 どうだろう、インパクトがあるではないか。自分がこの自分を買うというのだから、ちょっと怖い気がする。

 だが寺山は、必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていないのだ。

「その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである。この二つの警句はよく似ているが、まるでちがう。前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである」

 なるほどだ。そうにちがいないのだ。競馬に対する自分なりの哲学を見い出せるではないか。深くレースを見つめることが出来るし、人生には答えが無数にある(こと)を競馬で日々実感しているではないかと確認できる。

 寺山のこの指摘は、多くの若者の心をつかんだのだが、こうした話の中に、あのハイセイコーが登場したのだから、ブームになる下地は十分にあったということだった。どう語り継ぐか、忘れてはならないことだ。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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