競馬にも通じる恕の心

2011年07月28日(木) 12:00

 自分が他人にから受けたくないことは、他人にもしないことだという教えがある。如何にももっとも至極なのだが、我を忘れているとそのことはないがしろにされることが多い。

 孔子は、生涯行うべきものを一文字で表すとどうなるかという問いに、それは恕(じょ)だなと答えたと論語に出てくるが、この恕こそ思いやりのことであり、他人から受けたくないことを自分も他に対してしないという心に通じていく。

 競馬は、勝つか負けるかがはっきり出てくるから、その恕の心を発揮するかしないかもはっきり見えてくる。一緒にいて居心地がいいか悪いかは、その心があるかどうかによるのではないか。また、一事が万事ではないが、もしその時、居心地が良ければ、他の時もそうだろうと思っていいだろう。たかが競馬であっても、されど競馬なのだ。

 互いに気分が良ければ、いいことだって起こりそうな気がする。そうでなくても、気分がいいということで、全てを許せるではないか。その上、現実に幸運をつかもうものなら、それ以上のことはない。

 競馬は、そのことを分かりやすく見せてくれる。だから、恕の心に自信のない者は、競馬は一人でつき合うものと決めている。他を巻き込みたくないし、じっと静かに楽しむものと思っている。

 勝つか負けるかはっきりしているということは、時折、とてつもない隔(へだたり)を生むことであり、そんな経験が一度でもあると、なるべく静かにやっていたいという気にもなる。なかなか和気あいあいとはいかないように見えるのだ。

 さて、そこで、もしも居心地のいい仲間がいると確信があるのなら、それはとてつもなく素晴らしいことで、人生の宝物をもっているのに等しい。大切にすることで、一層恕の心は深く強くなり、誠心誠意をつくす心にもふくらんでいくのだから、どれだけ大きなことか。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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