長い目で見るという人間の計らい

2011年08月18日(木) 12:00

 当たり前のことではあっても、いざ実行するとなると意外に難しいものだ。とにかく目先の対応に追いまくられ、長い目で見るという心構えを忘れていることが多いのだ。

 長期的な対策、いまほどこのことばが重くのしかかっているときはない。だからと言うのではないが、足もとから崩れていく状況にあって、どうして遠い先のことまで考えておかなかったのかと後悔の念を、誰だって深めざるを得ない。

 競馬は、その点、多くの示唆に富んでいるし、証明もしてくれている。だから、競馬を競馬として見るだけでなく、もっと多くのことをここから読み取るようにすればいいのではないかと思うのだ。忘れないために。

 毎週毎週、逸材の復活あり、古豪の執念の初重賞制覇あり、そうでなくとも、リフレッシュ放牧明けの勝利や骨折明けの復帰など、枚挙にいとまが無い。そのひとつひとつのケースに、長い目で見るという人間の計らいがあるではないか。

 競馬の中の長い目は、人間社会で当面する10年先、20年先のものとは違うかもしれないのだが、目先の対応ばかりにとらわれてはいられないというところは、競馬の日常ではある。なにしろ相手は生きもの、人間の計らいひとつで大きく変わっていく。どう向かいあっていくか、そこには長期的対策も考えなければならないケースも含まれている。目先の対応に追われすぎて頓挫してしまう、競馬ではよくある。どこかでじっくり構える期間をとったものが大きなチャンスをつかむ、よく目にすることだ。言わば当たり前のことなのに、その実行となると迷ってしまう、よくあることなのだ。

 遠き慮(おもんばか)りなければ、必ず近き憂いあり、論語にもこう書かれている。二千年以上も前にこう言われていたのだ。人間社会の真実は、長い歴史の中にあっても決して色褪せないことを証明している。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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