GI4勝馬スノウフェアリー出走差し止め事件

2011年08月24日(水) 12:00

昨年秋のG1エリザベス女王杯を含めて、G1・4勝の女傑スノウフェアリー(牝4、父インティカブ)が、予定をしていた8月21日(日曜日)のG1ジャンロマネ賞(芝2,000m、ドーヴィル競馬場)への出走を、主催者であるフランス・ギャロに差しとめられるという、極めて珍しい「事件」が起きた。

 昨年暮れG1香港Cを制した後、当初はドバイから今季のキャンペーンをスタートさせるべく調整を積まれたものの、一頓挫あって今季前半を全休することになった同馬。今季初戦となった7月2日にサンダウンで行われたG1エクリプスS(10F7y)は、久々が応えたかソーユーシンク(牡5、父ハイチャパラル)の4着に敗れたが、7月30日にグッドウッドで行われたG1ナッソーS(9F192y)では、彼女らしい末脚の片鱗を覗かせてミッデイ(牝5、父オアシスドリーム)の2着に食い込んでいた。

 その後、8月18日(木曜日)にヨークで行われたG1ヨークシャーオークス(12F)を目標に調整をされ、最終登録まで行ったのだが、降雨のためヨークの馬場が悪化したため、ここを取り消した上で、そういう事態を予測してあらかじめ登録を行っていた、3日後の8月21日にドーヴィルで行われるG1ジャンロマネ賞に目標を切り替えることになった。

 既に御承知のファンも多いことと思うが、馬場状態の良し悪しによって、レース直前に出走を取り消すことは、欧米では珍しいことではなく、むしろ日常茶飯事と言える行動である。ましてや、ヨークシャーオークスもジャンロマネ賞も牝馬限定のG1で、距離も一方が12Fで他方が2,000mと大きな隔たりがなく、つまりは似たような競走条件のレースが近しい日程で2つの場所で組まれている場合、両方のレースに登録しておいて、馬場や相手関係を見た上で、きりぎりの段階でどちらに出るか決めるケースは、少なからず起こることである。

 ところが、出走を見送ったヨークシャーオークスが行われた18日(木曜日)夜、フランスの競馬を統括するフランスギャロからスノウフェアリーを管理するエド・ダンロップ調教師のもとに、スノウフェアリーはフランス競馬のルールに抵触したためジャンロマネ賞には出走出来ないと通告が行われたのである。

 フランスギャロの説明によると、スノウフェアリーが触れたのは、ルール130条とのこと。ここで定められている、「当該レースから遡ること8日以内に、他のレースに最終的な出走登録を行ないながら取り消した馬は、出走することができない」との規約に、ジャンロマネ賞の3日前に行われたヨークシャーオークスに出走登録を行いながら取り消したスノウフェアリーは、抵触したのである。

 怪我などやむを得ぬ理由以外で直前に出走を取り消したり、出走メンバーが直前まではっきりしないことは、ファンにとって不親切な面があることは確かで、フランスギャロが1996年に設けたこの規約は、それなりに筋の通ったものと言えよう。

 こうしたルールがありながらこれを承知していなかったのは、スノウフェアリー陣営の落ち度であることは間違いない。

 だが、エド・ダンロップ師をはじめとしたスノウフェアリー陣営にとって気の毒だったのは、このルールの存在を承知していた者が、欧州の競馬関係者にほとんど居なかったことである。英国を本拠地とする馬が国外のレースを走る場合、ニューマーケットにあるインターナショナル・レーシング・ビューロー(IRB)が窓口となることが多いが、IRBの担当者ですら、今回の騒動が勃発したのを受けて、「そんなルールがあることは、初めて知った」と驚きを示したのである。

 御膝元であるフランスの調教師や馬主も、このルールの存在を「今回初めて知った」者が多く、スノウフェアリー陣営の指摘によると、1999年にモンジューが、愛チャンピオンSに登録しながら取り消した上でニエユ賞を走った事例があり、それが事実であるなら、主催者のフランスギャロも見逃してしまった可能性があるルールなのである。巷間伝えられているところによると、ジャンロマネ賞でスノウフェアリーを敵に廻す陣営に、このルールの存在を御注進した者がいたようだ。

 もっとも気の毒なのは、走る機会を奪われたスノウフェアリー自身である。次走は9月3日のG1愛チャンピオンSになる予定だが、うっぷん晴らしの快走を期待したい。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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