2011年08月25日(木) 12:00
目に見えない誰かをもつこと、つまり、誰かがつねに見ていてくれる、誰かの声が聞こえる、これほど力を与えてくれるものはないという言葉が身に浸みたことがあった。
そして、時代を経てもそれは変わらないのではないか。生きる、生き抜く原動力となるベーシックなものは不変で、オーソドックスな考え方がその基本にあるということ。それをつかんでいたら、どれほど心強いか。何かを前にしたとき、その力がこの身に蘇ってこないかと心をその一点に集中させている。そう簡単なことではないが、そうすることで見えてくるものがあるような気がするのだ。
例えば、注目馬の多い注目レースの出走表を見ていたとする。見出しの活字がまず目にとび込んできて心を動かす。そうかなと、そのときの気分が疑問を投げかけてくる。とにかく、まず否定することから始まるのが常であって、言うとおりにうまくいくのだろうかという疑心の念がわいてくるのだ。
そうした思いのやりとりを長年続けてきた末の、どう仕様もなく身についてしまった癖なのだから仕方がない。
さて、ずらりと並んだクエッション・マーク。どうしたって整理がつかなくなったところで待つのは天の声。どこからかささやく声が聞こえてこないだろうか。その一点に思いが凝縮されていくのだ。そして、ふと光が差し込んでくるような思いがわいてきて、ある馬を指名する。その時、目の前にレースシーンがくっきり浮かんできたらしめたもの。目に見えない力が、この身に力を与えてくれたのだ。謎が解けた。これで行こうと、そこで決心がつくのだ。
では、この力をくれたオーソドックスでベーシックなものとは、どんなことか。
そこに出ている馬たちの脚質であり、そこから考えられるレース展開であり、この先起こりそうな目に見えないものをつかみ取る偶然ではないか。毎週こう思っている。
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長岡一也
ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。