無心と無欲が教える競馬のこころ

2011年09月01日(木) 12:00

 競馬と付き合うのにも「道」を意識すると奥深い体験が得られる。人生ここまでやってきて、そう強く思っている。ぜひ、参考にしてもらいたい。

 世の中には道を究める教えが、さまざまに受け継がれて、倫理、哲学として精神的バックボーンになっている。多かれ少なかれ、日々の暮らしの中にその心は息づいているし、それを支えとしてきた。

 そんな「道」を極める言葉を、少しずつでも知ってきたら、どんなに豊かになるだろう。この道は、どこにでも求めることができる。そこで、競馬にもと考えた次第なのだ。

 無心が大きな成果につながると、禅にこころは教えている。そうでなくても、無心になる、あるいは無心になれることを日常では肯定している。この無、どう捉えたらいいのか。別の言葉に、大欲は無欲に似たりとある。実にうまいところをついている。

 競馬は欲得、打算のうず巻くものだからこそ、無心の意味は大きく、そうであることで結果的に大欲を満たしてくれると言えるのではないか。少しは、身に覚えのあることだと思うのだが。

 競馬でも、よく無欲の勝利という言葉がある。この場合の無欲は、人馬の呼吸を合わせることに集中し、ただひたすら馬の気持ちに乗るという姿のことだ。このひたすらというのが無心を意味し、それが成果につかがるということなのだが、もちろんレースで勝つのはそれだけではない。

 状況をどう判断するか、それによって馬のもてる力をフルに引き出すかなのだが、とどのつまり、その馬が強いかどうかにつきる。

 そこで、こちらとしたら、そのさまざまな要素をどうひたすらに追い求めていくか、そのひたすらというところで無心になるのだ。

 誰だって大欲はあるのだが、その瞬間は無欲に徹するのだ。競馬の答えは、常にひとつしかない。打算を排除できるかが鍵となる。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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