“折り合いをつける”ということ

2011年09月08日(木) 12:00

 いらざる不平不満が頭をもたげたら、気をつけなければならない。際限のない人間の欲は、この身を破滅させることがあるからだ。

 いつでも、適当なところで折り合いをつける習慣が身に付いていればいいのだが、そうはいかないことがあるから困ったことだ。

 競馬のレースと生き方を結びつけるのは突拍子もないが、折り合いという言葉から目の前のレースを鑑賞するのも悪くない。

 競馬の場合、無理をしない、無理をさせない、折り合いをつけるとよく言うが、これは人馬の戦いだ。レースは、他馬との戦いであり、人馬の戦いでもある。その捉え方は、その時々でいろいろある。といっても、馬が状況を判断できるわけではないから、こうしたいと判断するのは人の方。人間がどうレースを読んで馬に伝えるかだ。そして、それを馬が察知して行動に移せるかどうかだ。人馬が一体になれば、その馬のベストの走りができるというのが、この世界の常識なのだが、互いに感情のある生きものというところに問題が生じる。そこが難しいところであり、面白いところでもある。

 レースその時々の人の気分、馬の気分、それを考えたらこんな厄介なものはない。これにこちら見る側の気分が加わるのだから、どう仕様もないではないか。

 折り合いをつけるといっても、競馬との折り合いをどうつけたらいいのか。いくら考えても、どこかでケリをつけるしかない。今日はこうなるだろうという決断、それしかない。競馬との折り合いは、こちら側の心一つなのだ。その結果がどうなろうと納得するしかない。それは誰のせいでもないのだ。

 つまり、適当なところで折り合いをつける、それなのだ。競馬のレースと生き方を結びつけるのは突拍子もないといったが、実はそうでもない。競馬と上手に付き合ううちに、折り合いをつける習慣が身につくのだ。それだけ、競馬の奥は深いということになる。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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