競馬と“常識”

2011年09月22日(木) 12:00

 几帳面であっても、常識的というわけではないというのが、競馬とつき合うのに一番いいような気がする。世間の常識を、普段の生活の中では忘れてはならないが、競馬では常識を覆すことが多いと思っていた方がダメージが少なくていい。いや、長年の経験から、競馬の常識はそっちのほうだと承知しているのではないか。

 春のチャンピオンが秋のタイトルを目指して登場する前哨戦、春のイメージをそのままこの新たなシーズンに当てはめるだけでいいのかと、誰もが一度は疑ってみる。そして、そうでない見解を見出そうと頭をひねる。つまり、常識的でない方に傾いていくのだ。

 それで成功することもあれば、失敗することもあるのは当然だが、ここで迷っていたらいつまでもそこから抜け出せない。これが自分の規則だというものを作り、それには必ず従う。ただし、規則は必ずしも世間の常識とは一致しなくともよい、整合性もなくてよい、そしてこうと決めたらただ守るだけと、そこまでいきたい。

 ただし、いくらそれが大胆であっても、その前提になるものがあって、それが几帳面さなのだ。自分なりの規則を作るとき、その几帳面さを駆使して、どれだけ自分なりを通すことができるか、競馬の醍醐味はそこにもあるのだと思う。

 常識的な世界から逸脱してみたいとの衝動にかられたら競馬とつき合うのがいい。そこには何でも許してくれる世界がある。誰かに迷惑をかけるということもない。自分の気持ちを大切にしてくれる。

 自分の考え方の規則を押し通すことで自分の気持ちを大切にするのだが、そうした以上は、いかなる結果をも受け入れる度量がなければならない。「イヤダカラ、イヤダ」と言って芸術院会員を辞退したという内田百聞の生き方、頑固さを、競馬との付き合いの中に思い描いてみた次第である。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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