2011年10月13日(木) 12:00
時が移ろう中で、忘れ去られていくもののなんと多いことか。その重さに、うなだれて落ち葉の道を歩くように、時折、心が沈んでいるときがある。ほんの一瞬だが。しかし、その思いを追求さえしなければ、自己嫌悪に陥らずに前に進むことができる。木立の上の澄んだ空に気づくようなもので、やがていそいそとした思いに立つのだから、面白い。
忘れ去られようとしていたものが、突然よみがえる例を、シンボリルドルフ、それに続くサッカーボーイの死に見たように思った。実況アナウンサーだから、よみがえるのはその時のレースを伝えた放送である。特にシンボリルドルフは、七冠のうちのいくつかのシーン、ダービー、ジャパンC、有馬記念のゴールが目に浮かぶ。いずれの場合もきっちり勝つのが当たり前という思いで、予定通りの結果を、途中経過を説明しながら伝えていたという、それほどの思い入れはなかったのだ。中山競馬場で行った引退式の司会をしたときも、そんなに思いを込めなくてもよかったように感じてその場にいた。
時代に君臨したという事実はあまりにも大きかったのだが、大きければ大きいほど、それだけで十分。つけ加える言葉が空しい響きとなるのだ。ターフを去ると言っても、きっと永遠に語り継がれていくのだから、ずっと記憶の中に生きていくのが当たり前。今この時は、そのルドルフ物語の途中のひとコマにすぎないとさえ思っていたように思う。
ところが、時が移ろう中でそうではなくなっていたのだ。どれだけ語り継いできただろうか。あの昭和の名馬を、どれだけ次の世代に伝えてきただろうか。ルドルフの死によって、強く思い知らされた。
このままでは、枯れ葉とともに朽ちてゆくようなもので、それでは情無いではないか。
澄んだ空を見ていそいそとした思いになるその中に、こうした競馬を語り伝える文化への思いを注入していきたいではないか。
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長岡一也
ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。