2011年10月27日(木) 12:00
中国の古典にふれると、今を生きるうえでの知恵や勇気を学び取るころができるように思える。「老子」「孫子「論語」「孟子」など様々ある中で、「荘子」には小さな現実に振り回されず自在に生きるという教えがいっぱい含まれているようで面白い。
勝った負けたに心を奪われているのがとても小さく見え、もっと大きく生きなければという力を意識させるのだ。その中に出てくる寓話にこんなものがあった。
闘鶏を訓練する名人が、王様の依頼で一羽の鶏を訓練するのだが、10日たってもなんの返事もないので王様が催促する。すると名人は「まだです。やたらに殺気立ってばかりいて、だめです」と答えた。それからさらに40日たってようやく「もう大丈夫。どんなにほかの鶏が鳴いて挑んでも、まったく動ずることはありません。見たところ、まるで木彫りの鶏のようです。これは徳が充満している証拠です」とつけ加えた。
つまり、ほかの鶏たちはその姿を見ただけで逃げてしまうというのだ。不敵ではなく無敵がどんなものでるかを教えている。
人間なら無言の説得力とでも言おうか、徳が内に充満している理想の人物像がどんなものであるか、「木鶏」は教えている。
7頭目の三冠馬は、見たところ不敵であることは間違いない。そして、これから無敵の領域に踏み込んでいけるかの可能性を大きくしている。サポートする人間のほうは、ひたすら「木鶏」の心境で、こころをしばらずに大きくいるように心がけることになるのだが、そこには勝った負けたを越えたものがあるはず。
その域に達する道のりがどれほどのものであるか、余人の知るところではない。しかし、「荘子」の思いからすれば、周囲の雑音に惑わされないでいてほしいと願うばかりだ。
そして、オルフェーヴルが日本競馬史に燦然と輝く星にあることを、しっかりこの目で見届けたい。しばらく、楽しみは続く。
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長岡一也
ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。