追悼・トウケイニセイ

2012年03月07日(水) 18:00

 トウケイニセイが昨日の朝、馬房の中でこと切れていたという。その前日までは元気でいたらしいので、一昨日夜から昨日の朝までの間に体調が急変したのだろう。呆気ない逝き方であった。死因は腎不全という。

 25歳。サラブレッドの場合、そろそろ体のあちこちに異変が出てくる年齢とはいえ、もう少し長生きできるものと思っていただけに、まだ現実のこととして実感をもって受け止められないでいる。こう書きながらも多くの思い出が脳裏を過り、しばし手が止まってしまう。

 生涯戦績、43戦39勝2着3回3着1回。獲得賞金は3億1577万円。数多くの重賞を勝ち、95年12月に引退した。その年、NARグランプリにて特別表彰馬となった。

 ただ、ここでトウケイニセイの戦績を振り返るのは止めて、この馬が私の牧場で誕生するに至った経緯を簡単に紹介することにしよう。

牧場にて、在りし日のトウケイニセイ

牧場にて、在りし日のトウケイニセイ

 話は1983年に遡る。ある日、栗東の小川佐助調教師から私の家に電話がかかってきた。「繁殖牝馬を1頭預かってみないか」という打診であった。名前をミスナオコといった。小川厩舎所属で3勝を挙げ、桜花賞にも出走した馬であった。父イースタンフリート。えりも農場の生産馬で、馬主は岡本修氏であった。

 条件は「仔分け」だという。「産駒は私の厩舎で引き取って競馬に使うから」と小川師が言ったのを記憶している。即決で受け入れることにした。中央競馬に生産馬が無条件で入厩できるのは魅力が大きく、私のような零細牧場には願ってもない話であった。

 それから間もなく、春の陽気で暖かな日の朝にミスナオコが馬運車に乗ってやってきた。ミスナオコは牧場の環境にすぐ慣れて、発情の兆候を見せるようになった。そして、初種付けの相手はエリモジョージが選ばれた。

 ミスナオコの馬主である岡本修氏は大阪の人だったが、当時えりも農場の実質的な管理責任者のような立場にあり、頻繁に北海道を訪れていた。その道中、私宅にも立ち寄るようになり、こんな縁からえりも農場との関わりが生まれた。ミスナオコは翌1984年にエリモジョージの牝馬を生み、その年にミルジョージを配合して受胎していた。

 秋になり、岡本修氏から「えりも農場で繁殖牝馬を放出することになったので、田中さんでも1頭どうか」と誘われた。この場合の「放出」は必ずしも売却を意味しない。他の牧場ではこの時、対価を支払って繁殖牝馬を買い求めた例もあったかもしれないが、私の牧場の場合は、あくまでも「仔分け」が条件であった。

 冊子になっているリストを見せられた時、すでに目ぼしい繁殖牝馬は行き先が決まっており、実際に私と父親がえりも農場を訪れた時には、わずか2頭しか候補が残っていなかった。1頭はSといった。胸前の広い、幅のある体型で、一見して「安産型」と分かったが、やや品のない馬であった。お腹の中にはパーソナリティの種を宿していた。

 もう1頭がエースツバキであった。Sとは対照的な体型で、栃栗毛のやせ形。品があるとはいえ、極端な内向で、おまけに後肢を外側に捻る独特の歩様。毛艶も良くなかった。

「どっちにするか」とニ者択一を迫られた時に、私たち親子が選んだのがエースツバキなのだった。正直なところ、この時点では選びようがないので苦し紛れにエースツバキを選択したに過ぎない。多くを期待して、喜び勇んで連れ帰ったのではなかったのだ。むしろ私は、ミスナオコの方により大きな期待をかけていた。しかし、その後の繁殖成績は、当初の期待度とは裏腹に、ミスナオコは特筆すべき成績を残した産駒がいない。

 自分の見る目のなさを露呈するようなものだが、エースツバキには当初それほど思い入れがあったわけではなかった。1985年に、エースツバキはエリモジョージの牝馬を生んだが、父に似た細身で小柄な馬体の、かなり気難しいタイプで、1歳8月の定期市場(現サマーセール)に上場した際に、抑え切れずに放馬してしまったのを覚えている。

 ついでながら記すと、「仔分け」というのは、種付け料を繁殖牝馬所有者が負担し、当該馬が1歳秋になった時に一定の評価額(馬代金)を設定して折半する形式で、多くは繁殖牝馬所有者が産駒を引き取り、自らが所有して競走に供するのが普通だが、ミスナオコもエースツバキも、産駒は原則として市場に上場させ、第三者に売却することが求められていた。その場合、売却代金の2分の1が私の牧場の取り分であった。

 エースツバキは、1986年にスイフトスワローの牝馬を生み、その年にトウケイニセイの馬主である小野寺喜久男氏から自身の所有馬であるトウケイホープの配合を打診された。

 トウケイホープは生まれ故郷のえりも農場に帰り、種牡馬となっていた。その頃すでに、小野寺喜久男氏はエースツバキの仔(トウケイフリート、父イースタンフリート)を所有しており、同じイースタンフリートの血脈を引くトウケイホープとエースツバキとの配合に行き着くのは当然のことであった。

「ぜひトウケイホープを付けてほしい。産駒は牡でも牝でも私が買うから」と小野寺氏に言われ、配合することになった。こうして誕生したのがトウケイニセイである。

 今になると、いくつもの偶然や出会いによってトウケイニセイが生まれたことを改めて感じる。エースツバキが私の牧場にやってきたこともそうならば、トウケイホープが南関東から転厩し、小野寺喜久男氏の所有馬として岩手で活躍したこと、その後小野寺氏がこの馬を種牡馬としてえりも農場に繋養するに至ったことも、すべて運命の糸で結ばれていたのだろうという気がしてくる。

 わずか4頭しか子孫を残せなかったトウケイホープの唯一の“息子”がトウケイニセイであった。おそらく今頃は、あの世で母や父と再会していることだろう。冥福を祈りたい。

 そして、これまでトウケイニセイを支えて頂いた多くの方々に心から感謝申し上げる次第である。ただひとつだけ心残りなのは、トウケイニセイが2009年1月に岩手に移動してから一度も会いに行けなかったこと。これだけが悔やまれる。

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田中哲実

岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。

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