2012年06月07日(木) 12:00
野心と自信、似て非なるものかもしれないが、互いに結びつくことがありそうで怖い。
皇帝になる野心があると見られ暗殺されたかの有名なローマのジュリアス・シーザーにこんなエピソードが残されている。
小舟で海を渡っていたときアラシに遭遇、波が高くなり、小舟は上下に激しくほんろうされた。その上、すさまじい雷鳴とイナズマに見舞われ、長年海になれた舟頭も生きた心地がせず「もうだめだ、神さま!」とカイを投げ捨て祈りはじめた。シーザーはこれをみて立ち上がり、「カイをとるんだ、シーザーが乗っているのに沈むことがあるか!」としかりつけたと言う。
野心と自信、このふたつがシーザーの胸のうちに交錯していた様子がうかがえる。
だが、何かを成し遂げようとするときの心のうちを覗くと、そこには赤々として野心が燃え盛っているではないか。卑近な話、三連単を的中させてやるぞと意気込んでいるではないか。向っていく心、これなくしてなんで競馬が楽しいかだ。競馬における野心は、罪がなく他愛ないもの。普段の生活では抱けないもの、抱いてはいけないものを、競馬なら許してくれる。
だが、その野心を簡単には満たしてくれないのが競馬であることは、誰しもが承知しているのだ。この春のGIシリースで、どれだけの野心を抱いたことか。そしてどれだけ多くの者が、その夢を打ち砕かれたことか。
叶わぬ時の神頼み、この切なさが競馬の魅力なのだという心境に至れたなら、無謀な自信を抱くことはせず、心穏やかでいられる筈だ。ほんの少しの、ささやかな野心、そしてなんとかなくなってくれという、自信ではなく願う心。競馬は、人を本当に可愛らしく仕立ててくれる。かつて、天皇賞をめざし4度サイを投げたが、結局ルビコン河を越えられなかった名馬シーザーを知っている者がいるだろうか。野心と自信には気をつけろという事。
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長岡一也
ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。