2012年11月03日(土) 12:00
今、ブリーダーズカップ取材に向かう機内で、この稿を書いている。今回はレースリポートのためではなく、トレイルブレイザーでブリーダーズカップターフに臨む武豊騎手の取材が目的の旅である。
私が初めてアメリカ競馬を見たのは1990年の夏、そのときも武騎手を追いかけての取材だった。場所はシカゴ郊外のアーリントン国際競馬場(当時の名称)。朝の調教で、厩舎の建物内の通路で列になって曳き運動をしていたり、厩務員が一本の曳き手綱を持っただけで、洗い場につながずに馬を洗っていたり……という、日本では考えられないシーンを見て、まさにカルチャーショックを受けた。
レースそのものも強烈だった。「ンー、ゼイ・アー・オフ」のアナウンス(「ンー、ゼアラオゥフ」と聞こえる)とともにスタートからカッ飛ばし、みながこれぞモンキー乗りという、短い鐙で首に張りつくような姿勢で豪快に追いながら真っ直ぐ馬を走らせるアメリカの騎手たちの、まあカッコいいこと。
当時21歳だった武騎手は、前年からこの競馬場に遠征するようになっており、技量の高い騎手たちに揉まれながら自らのスキルを上げていった。
それから、日本人オーナーの所有馬が欧米の重賞に使うときなどの単発の騎乗依頼のほか、毎年夏、アーリントンで騎乗するのが恒例になった。その行き先が、アーリントンがさまざまな事情で一時開催を中止するなどの影響で変わったのが94年。新たな遠征先は、南カリフォルニアのサンタアニタパーク競馬場になった。そう、今年のブリーダーズカップが行われる競馬場である。94年の暮れから年末年始はサンタアニタ遠征を繰り返すようになり、そして2000年にはこちらに住まいを借りて腰を据え、サンタアニタパーク、ハリウッドパーク、デルマーという「南カリフォルニアサーキット」と呼ばれる3場を拠点にレースをするようになった。
この地域の騎手のレベルの高さと競争の激しさは世界一と言われており、今年の夏、福永祐一騎手が遠征していたので、日本にファンにもさらになじみ深いエリアになったのではないか。
武騎手は2001年と2002年にはフランスに騎乗ベースを移し、そちらでアメリカ以上にたくさん勝っているので「ヨーロッパで実績を残している騎手」というイメージが強いかもしれないが、実は、海外初騎乗も初勝利も、早くから憧れていたのもアメリカなのである。
アメリカ競馬の頂点は、ある意味ではケンタッキーダービーなのだろうが、別の意味で最高峰と言えるブリーダーズカップに彼が出るのも、もちろん初めてではない。これが3度目、5頭目の参戦となる。
今回の参戦は、彼がアメリカの主戦場としていた舞台で、しかも、鼻出血に悩まされたトレイルブレイザーが、その治療薬にもなる利尿剤のラシックスを使って出走できるという、二重のアドバンテージを得てのものになる。
トレイルブレイザーの参戦を機に、アメリカ競馬、それも最高峰のレースを目にする日本のファンが急増すると思うが、特にこちらの騎手のコーナリングと、直線でのステッキワークにも注目してもらいたい。よく「欧米の競馬は出入りが激しく、日本だと降着になるような斜行がしょっちゅうある」といった感じのことが言われているが、「欧」と「米」では競馬の形がまるで違う。日本以上に馬を真っ直ぐ走らせるのがアメリカ競馬だ。これも昭和33年、ハクチカラが日本馬として戦後初めての海外遠征をしたころから、いや、そのさらに前から日本のホースマンが追いつき、追い越すことを目指してきた「世界の競馬」だ、ということを、より多くの人に知ってもらいたいと思う。
来年から降着・失格の新ルールが運用されることになり、日本の競馬がさらに激しくなることが予想される。一部のヨーロッパの騎手が繰り返す強引な割り込みや斜行だけが「厳しい競馬」の見本ではない。アメリカ競馬で見られる、馬を真っ直ぐ走らせたうえでの豪快な攻防を――映像などで楽しんでほしい、と書こうとしたが、まず、私が現地で楽しんできたいと思う。
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。 関連サイト:島田明宏Web事務所