2003年05月20日(火) 16:58
レースを見ていて全身に震えが走ったのも久々なら、レース後は涙腺が緩んで仕方なかったのもここ最近無かったことだ。17日にピムリコで行われた北米3歳3冠のセカンドレッグ・プリークネスSは、超弩級のスケールで競馬の凄さと面白さを伝えてくれた、極上の芸術作品だった。
ファニーサイド主演の最新作は、まずレースそのものが圧巻だった。2着ミッドウェイロードに付けた着差が9と3/4馬身。最近では、91年にハンセルが勝ったときが7馬身。74年にリトルカレントが勝った時が同じく7馬身。1943年に史上6頭目の3冠馬になったカウントフリートが付けた着差が8馬身。で、なおかつ歴史を遡っていったら、今年を上回る着差は1873年に行われた第一回プリークネスSで勝馬サヴァイヴァーがつけた10馬身差まで、130年も遡らなければ見つからなかったという、歴史的快挙だったのである。
ファニーサイドを所有するのは、ニューヨーク州北部のサケッツハーバーという、人口1386人という小さな田舎街にある高校の同窓生6人を中心とした、10名のシンジケートだ。メンバーは、サラトガでヘルスケア・コンサルタント業を営む代表のジャック・ノールトン氏をはじめ、今も故郷で塾の講師をやっている人、自らキッチンに立つ仕出し屋のオヤジさんなど、いずれも典型的な中流階層の人々だ。ダービーの時もプリークネスの時も、メンバーはそれぞれ家族を引き連れての観戦だったのだが、彼等が競馬場に乗り付けたのは1台の黄色いスクールバスだった。3冠の出走馬主ともなると運転手つきのでっかいリムジンでの来場が当たり前なのだが、庶民の彼等にはリムジンなどもっての他。最初はサロンバスを借りることも考えたらしいのだが、それも高過ぎるということで、学校が休みで安く借りられるスクールバスをチャーターしての来場となったのだ。
バスから降りてきたのは、こう言っては何だが、見るからに素朴な田舎のおじさんたちの集団なのだ。中でも、まっ黄色のスラックスに、黄色の格子柄のジャケットという、何とももの凄い出で立ちで登場したのが、元建設現場作業員というメンバー最年長の77歳ガス・ウィリアムさん。表彰式では、後列で恥ずかしそうにしていたウィリアム爺さん。インタビュアーに前列に呼び出されて「賞金の一部で、ファッション・コーディネーターを雇われたらいかが」と突っ込まれて苦笑していたが、御本人にとっては精一杯頑張ったお洒落だったことは間違いない。
そして、前走後に起きたホセ・サントスの電気ムチ使用疑惑が、物語りの更なるエッセンスとなった。ダービーの表彰式で、父親の晴れ姿に感極まって号泣していた次男のホセ・ジュニア君は、事件が新聞を賑わした翌日、学校で苛められたそうだ。お父さんは悪いことをしていないと必死に抵抗した少年は、プリークネスS当日、レースのスタート前から既に半泣きだった。
ダービー前日に夫にプレゼントした健康器具の磁気ブレスレットが、電磁波を出した装置と疑われた妻のリタにとっても、辛い日々だったはずだ。夫と父の独走を見て、泣き崩れる妻と子の姿を見せられたら、涙腺が緩くなるのもむべなるかなである。
ニューヨークの小市民たちが所有する、ニューヨークで生まれたサラブレッドが、3冠の夢をかけて最終関門ベルモントSの行われるニューヨークに帰って来るという、最高のシナリオが描かれたプリークネスS。6月7日までの3週間は、関係者にとってもさることながら、競馬ファンにとってもまたとない至福と時となろう。ニューヨークを巡る全てのアクティヴィティーを、皆さんとともに楽しみたいと思う。
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合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。