アンカツさんのいないレース

2013年02月02日(土) 12:00

 安藤勝己氏が、1月31日をもって騎手を引退した。

 こう書いていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。「安藤勝己」と「騎手」とがくっつかないなんて、まだちょっと現実感を持つことができない。

 52歳。来月誕生日が来ると53歳。年齢だけ見ると「引退もやむを得なかったのかな」と思うが、ついこの前までトップレベルの騎乗を見せてくれていただけに、「アンカツさんのいないレース」を受け入れるまで、もう少し時間がかかりそうな気がする。

 地方競馬所属騎手として初めてJRAの騎手免許試験に合格したのが2003年。その前から中央のレースに数多く騎乗していたし、オグリキャップが笠松にいたころの主戦騎手としても知られていた。

 その知名度が全国区になったのは、中央と地方の「交流元年」と言われた1995年のことだった。笠松で10戦10勝というとてつもない強さを見せていた旧4歳牝馬ライデンリーダーで中央の報知杯4歳牝馬特別を勝ち、単勝1.7倍の圧倒的1番人気で桜花賞に臨んだ。桜本番では4着に敗れたものの、勝ったのは田原成貴氏のワンダーパヒューム、2着は武豊騎手のダンスパートナー、3着は岡部幸雄氏のプライムステージ、5着は松永幹夫現調教師のユウキビバーチェと、人馬とも名実ともに超一流のメンバーが上位を占めた「名レース」だった。

 大舞台で稀有の勝負強さを見せた名手・アンカツ。
 JRA通算成績は6593戦1111勝。重賞81勝、うちGIは22勝。
 この数字を見て私が最初に感じたのは、
 ――成貴さんの通算成績に似ているな。
 ということだった。

 田原氏は1978年から98年までの騎手生活で通算8648戦1112勝。GI(級)レースを15勝。特にキャリアの前半は今とはレース数もGIの数も違ったので単純な比較はできないが、大舞台での「さすが」という存在感や、近寄りがたい雰囲気など、ふたりの名手には通じるものがあったように思う。

「近年は地方や海外からトップジョッキーが来て乗るようになっているので、デビューしたばかりの若手騎手にとっては厳しい環境になっている」

 とささやかれるようになった、その「厳しい環境」を(本人が意図せずとも)作り出した中心人物とも言えたのが安藤氏だった。

 2008年に競馬学校騎手課程を卒業してデビューしたのは三浦皇成、伊藤工真、大江原圭の3騎手だけで、無理に3年で卒業させず、少数精鋭で「完成品」に近いところまで鍛えてから「厳しい環境」に送り出そう――という動きが見えたのは象徴的だった。

 その三浦騎手が、「安藤さんほどやわらかく乗れる人はいないと思います」と話していた。

 安藤氏の騎乗フォームは独特だった。道中後ろに重心がかかり、首が前後に揺れて、傍目には引っ掛かっているかにも見えるのに、騎乗馬は直線で鋭く伸びる。本当に掛かっていたら終いあれほどの瞬発力を発揮することはできないはずだ。本人に確かめたことはないのだが、ほかの騎手に、
 ――アンカツさんは、自分の馬が掛かっているかのように、作戦として見せているのでは?
 と訊いたら、「そうだと思います」という答えが返ってきた。

 思えば、晩年の岡部幸雄氏も、道中似た感じの乗り方をしていた。ハミを噛ませながら騎乗馬の余分な力を抜く、名手ならではの手法を自分のものにしていたのだろう。

 私は、いわゆる「囲み取材」や「ぶら下がり取材」では何度も安藤氏に話を聞かせてもらったことがあるのだが、膝を付き合わせてインタビューしたのは2度だけである。

 1度目めは90年代の中ごろだったか、雑誌の企画でアンカツさんと、兄のアンミツさんこと安藤光彰現調教助手と武豊騎手の鼎談の司会・構成を担当したときだった。

 2度目は09年春、その前年の天皇賞・秋で武騎手のウオッカと安藤氏のダイワスカーレットが演じた鼻差の激戦を振り返る、スポーツ誌のノンフィクションの取材だった。敗者サイドだった安藤氏が「失敗レース」と振り返ったレースについて話したのだから、けっして面白い取材ではなかったはずだが、1時間ほど丁寧に応じてくれた。

 勝ったあとも、負けたあとも、淡々としたアンカツさんならではのペースを崩さなかった。勝って浮かれることもなければ、負けて落ち込むこともない。人気馬で敗れたGIのあとも、少しかすれた特徴のある声で、記者のすべての質問に、勝ったあとと同じように静かに答えていた。そうしたブレのない安心感を、騎乗馬にも与えていたのだろう。

 アンカツさんがいる、ということで安心感を得ていたのは、私たちファンも同じだ。
 一見して「あの人はあそこにいる」とわかる騎手が、またひとりいなくなった。
 ここまで書いてもまだ整理がつかないが、少しずつ「アンカツさんのいないレース」に慣れていこうと思う。

 安藤さん、長い間、お疲れさまでした。あなたの素晴らしいプレーを同時代で見られたことに感謝しています。ありがとうございました。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。「Number」「優駿」「うまレター」ほかに寄稿。著書に『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ブリーダーズ・ロマン』。「優駿」に実録小説「一代の女傑 日本初の女性オーナーブリーダー・沖崎エイ物語」を連載中。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナー写真は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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