畏敬の念を抱けるか

2013年03月21日(木) 12:00

 ある物づくりの名人の言葉。わたしは一介の職人だから芸と言えるほどのものはないが、ただひとつ言えることがあるとすれば、何よりも気をそこなうことのないよう注意している。必ず、精進潔斎(けっさい)して心を静かに。そうすると雑念は去り、心身ともに不動になっていく。そして、無心、無欲、無我の心境がおとずれ、外から心を乱すものはないから、心が技そのものになり切れること。
 
 つくったものが神わざと言われるなら、それをつくったのはわたしを超えたものの成せる技だと言うのだが、修行に修行を重ねて到達する境地だけでは足りず、その先にある心境にまで言及するのだから、並大抵でない。こんな畏敬の念を抱けるほどのものを目の前にすることができたら、どれほど、この心は清々しく満たされることか。そういう場面に遭遇することを、どこか願っているのだ。

 競馬だって同じ心を持って接しているところがある。誰しもが強いと認める大本命が、期待に違わず圧勝したら、自分の予想や馬券といった競馬の日常を超えた心境がおとずれる。どんな雑念があったにしろ、その戦う姿に引き込まれ、人馬一体の技とまで思ってしまうのだ。次元の異なるいるという心の動きを、ゴールドシップは、また味わわせてくれた。手の内も何もなく、あけっぴろげのあの強さ。人馬の動きそのものが不動の強さを象徴していた。

 そして、ロゴタイプ。先んじて2歳王者の座を仕留めたこの馬を、年明け初戦でどこまで信じていいのか。そんな懸念は、全く必要なかったのだ。先んずることで頭角をあらわした若駒は、どれよりもいいスタートを切ることで自在な戦いができることを証明した。

 この馬の武器はそこにあり、どの位置にいようと、レース全体をいつも掌握しているのだ。騎手は、無の境地でさえあればいい。さて、畏敬の念を抱けるシーンを目の前にすることが出来るか。大一番が楽しみだ。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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