米トップジョッキーの騎手人生

2013年06月19日(水) 12:00 27

 アメリカのトップジョッキー、ラモン・ドミンゲス(36歳)が、13日(木曜日)に現役引退を発表した。

 1976年11月14日にヴェネズエラのカラカで生まれたラモン・ドミンゲスが、テレビで競馬を見て、瞬時にしてその魅力にとりつかれたのは、13歳の時だったという。プロ騎手になりたいとの望みを抱いたが、息子を医者にすることが夢だった父の猛反対にあい、ようやく乗馬を始めることを許されたのは16歳の時だったというから、プロ騎手としては相当に遅い「馬との出会い」だった。

 障害飛越競技を楽しむうちに、もっと速い馬に乗りたいとの欲望がいよいよ抑えがたいものとなり、1年後には父には無断で競走馬の育成場で騎乗するようになったドミンゲスはやがて、ラリンコナーダ競馬場のアマチュア騎手戦に出場するようになった。

 この頃になると、息子の本気を読み取った父がだんだんと理解を示すようになり、遂には、高校を卒業することを条件に、ラモンが騎手の道を目指すことを容認することになった。

 ラモン・ドミンゲスがアメリカに渡ったのは1995年で、19歳となった1996年にフロリダ州のハイアリアでプロ騎手としてのデビューを果たしている。

 ブレークしたのはメリーランド州を拠点に騎乗していた2001年で、ローレルの冬開催、ピムリコの春開催、ピムリコの夏開催でリーディングのタイトルを獲得。結局この年は年間で431勝を挙げ、全米リーディング勝ち鞍部門で首位の座に立つことになった。デラウェアパークでトラックライダーをしていたシャロン夫人と結婚したのは、この年の6月のことである。

 2003年にも年間453勝を挙げて、2度目の全米リーディング(勝ち鞍部門)を獲得したラモン・ドミンゲスに、ビッグレースで乗り馬が廻るようになったのは2004年のことで、この年の5月にタピットに騎乗してケンタッキーダービーに初騎乗。更にこの年の8月、ベタートークナウに騎乗してサラトガのG1スウォードダンサーHに勝利し、G1初制覇を果たしている。

 その後、04年10月30日にローンスターパークで行われたG1BCターフに駒を進めたラモン・ドミンゲスとベタートークナウは、単勝28.9倍の8番人気という伏兵扱いだったが、G1セクレタリアトSとG1ターフクラシックを連勝していた1番人気のキトゥンズジョイ、欧州から遠征したG1タタソールズGC勝ち馬パワーズコートらを退けて見事に優勝。騎手ラモン・ドミンゲスの名が世界に轟くことになった。

 その後、メジャーなレースでは欠かせぬジョッキーとなったラモン・ドミンゲスだったが、腕の冴えがいよいよ円熟期を迎えたのは、年齢でいうなら30代半ばを迎えた、2009年以降のことだった。

 2009年からニューヨークを拠点に騎乗し始めたドミンゲスは、芝の大物ジオポンティと出会い、G1フランクキルローH,G1マンノウォーS、G1アーリントンミリオンという3つのG1を制覇。この年の秋、まだメイントラックがオールウェザーだった頃のサンタアニタを舞台としたブリーダーズCで、ラモン・ドミンゲスとジオポンティはG1BCクラシックに挑み、あのゼニヤッタの2着に入る健闘を見せている。

 そして2010年、ラモン・ドミンゲスはヘインズフィルドで制したG1ジョッキークラブGC、ジオポンティで制したG1シャドウェルターフマイルなど、5つのG1を含めて年間で369勝をマーク。1691万1880ドルの賞金を収得して、遂に全米リーディング賞金部門で首位に立った。同時に、エクリプス賞騎手部門を初めて受賞し、全米騎手界の頂点に立っている。

 翌2011年には、年度代表馬に選出されたハヴレドグレイスとのコンビで、G1ベルデイムS,G1マンノウォーS、G1アップルブロッサムHを制覇したのに加え、2歳牡馬チャンピオンに選ばれたハンセンに騎乗してG1BCジュヴェナイルにも優勝。重賞年間27勝、このうち10勝がG1という大活躍を見せ、年間収得賞金は2000万ドルの大台を突破。2年連続でエクリプス賞を受賞することになった。

 そして2012年、ラモン・ドミンゲスは、これ以上の成績はありえないというほどの活躍を見せた2011年を更に上回る、驚異的な数字を叩きだすことになった。

 7月22日にサラトガで、9月2日に同じくサラトガで、1日6勝をマーク。夏のサラトガ開催で1日6勝を2度マークした騎手は、ドミンゲスが初めてだった。更に開催通算で、従来の記録を4勝上回る68勝という、サラトガ開催歴代最多勝記録を樹立した。

 このサラトガ開催を含め、ニューヨーク地区を舞台とした全ての開催でリーディングの座を獲得。リトルマイクとのコンビで制したG1アーリントンミリオンやG1BCターフ、アルファとのコンビで制したG1トラヴァーズSなど、前年同様に年間G1・10勝をマーク。そして、年間収得賞金は2558万2252ドルに達し、2003年にジェリー・ベイリーがマークした2335万4960ドルを大幅に更新して、騎手による年間収得賞金の歴代最多記録をマークしたのである。

 その功績を讃えられ、ラモン・ドミンゲスは2012年、エクリプス賞騎手部門を3年連続で受賞した他、ジョージ・ウールフ・メモリアル・ジョッキー賞も獲得している。

 これだけの絶頂期に、しかも36歳という年齢で、ドミンゲスはなぜ鞭を置くことになったか。

 要因は、怪我であった。

 今年1月19日にフロリダ州のガルフストリムパークで行われたエクリプス賞授賞式に、ラモン・ドミンゲスの姿はなかった。実はその前日、アクダクト競馬場の第7競走で、騎乗していたコンヴォケイションが他馬と接触して転倒し、ドミンゲスは落馬。競馬場近くのジャマイカ病院に搬送されたドミンゲスは、頭蓋骨の骨折が判明し、エクリプス賞の授賞式が行われている時、集中治療室で医師の手当てを受けていたのであった。

 エクリプス賞は、ドミンゲスとともにファイナリストに挙げられていたジョン・ヴェラスケスとハヴィーア・カステラーノが代理で受賞。二人の騎手が、ドミンゲスの1日も早い復帰を願うとスピーチした後、病院で夫に付き添うシャロン夫人から寄せられた「夫は元気です。医師は全快を約束してくれました」とのメッセージが読み上げられると、会場はこの日一番の大きな拍手に包まれた。

 軽い怪我ではないものの、騎手生命を脅かすほどのものではないというのが当初の診立てだったドミンゲスは、1月22日にジャマイカ病院から脳外科の専門医がいるマンハッタンのウェイルコーネル・メディカルセンターに転院。その2日後の1月24日には集中治療室から出ることが出来、更に2月4日にはリハビリ施設の充実したバーク・リハビリテーション・センターに再転院し、復帰への道のりを歩み出したかに見えた。  

 2月14日には、元ジョッキーで現在は解説者となっているリチャード・ミグリオーレのインタビューに応え、順調に回復していることを報告。ただし、怪我の程度は当初の診立てよりも重いもので、復帰時期の目標は設定せずに、地道にリハビリを積み重ねていくことを明らかにしている。

 そのおよそ1カ月後の3月10日に、負傷後初めてアケダクト競馬場を訪れた際には、メディアを通じて、3月25日に専門医による精密検査が予定されていることをファンに報告。その結果次第で復帰の時期も見えて来るとコメントし、リハビリが順調に進んでいることを窺わせていた。

 ところが3月25日に行われたMRIによる検査は、ドミンゲスの脳がまだ100%の状態には戻っていないことを示すものだった。一般人として日常生活を送るには全く支障が無いまでに回復していた一方、アスリートとして現場に復帰する水準には到達していなかったのである。

 その後もリハビリを継続したが、残念ながら劇的な回復には至らず、再度の落馬で脳に改めて衝撃が加わることを危惧する医師団のアドバイスを受け入れたドミンゲスが、現役を退くことを決めたのが、6月13日であった。

 通算勝ち星4985勝、通算収得賞金1億9161万5698ドルという記録を残して鞭を置くことになったドミンゲスの、今後の進路はまだ明らかになっていない。だが、人柄が温厚で人望の篤い人物だけに、競馬サークルの様々な分野から数多の声が掛けられていると聞く。そして全米中の競馬ファンが、ラモン・ドミンゲスの第2に人生に幸多かれと願っている。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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