寺山修司流の1対1

2013年09月07日(土) 12:00

 先日、月刊誌「優駿」の企画で武豊騎手にインタビューした。場所は都内のシティホテルの貴賓館。昭和モダンどころか大正の香りさえ感じさせる30畳ほどの部屋で、取材者サイドとしては、私のほか、優駿編集者がひとりとカメラマンがひとり。取材対象サイドは、以前はドライバーを兼ねたバレットが同席することも多かったのだが、今回は武騎手ひとりだった。

 これが広告がらみだったりすると、代理店の人間が来たり、カメラマンもアシスタントを使ったり、出版社から営業の人間も出てきたりして、もっと人数が多くなるのだが、雑誌の取材は、だいたい5、6人というのが標準的である。

 ただ、ダービー直後に同じ「優駿」で武騎手にインタビューしたときは、私がひとりで京都に彼を訪ね、話を聞いた。

 こんなふうに、取材対象と1対1でインタビューするのは、ここ数年では、ユニオンオーナーズクラブ会報「マイホース」の調教師インタビューコーナー「トレーナーズファイル」の関東編ぐらいだ。しかし、それはいつも先方の厩舎を訪ね、事務所スペースでやっているので、特にイレギュラーな感じはしない。

 ほかに、取材対象と1対1でじっくり話をしたのは、相馬野馬追の騎馬武者の蒔田保夫さんに、震災の津波で亡くなった長男の匠馬君についての話を、その年の菊花賞の前夜、郡山の借り上げ住宅で聞いたときぐらいか。相手が地方や海外にいる場合、経費の都合で単身赴くことはままあるが、都内や首都圏で話を聞くとき、それも初対面の相手だとなおのこと、1対1というのは考えづらくなる。

 何が言いたいかというと、週刊誌の記者が内密で取材する場合などを除くと、いわゆる「インタビュー」という形で、編集者もカメラマンも立ち会わずに1対1で取材することは、めったにない、ということだ。

 それは時代を問わず言えることで、むしろ、ひと昔前のほうが、カメラの性能が劣ったので編集者やライターがパチリとやるわけにはいかなかったし、ICレコーダーなどなかったので、速記者が同席したりと、今よりも大人数になることもあった。

 にもかかわらず、詩人、劇作家、競馬コラムニストとして名を馳せた寺山修司は、当時騎手だった嶋田功氏へのインタビューを、京王プラザホテルのラウンジで1対1で行った。インタビューの主題は「落馬」だった。嶋田氏は、1969年のダービーで1番人気のタカツバキに騎乗したのだが、スタート直後に落馬した。その後、72年にも落馬で頭蓋骨を骨折して一時意識不明になるなど、何度も地獄を見ることになった。

 その嶋田氏の現役時代、古傷に触れるに等しい落馬について訊くのは気が咎める部分もあったと思うのだが、訊かれた側の嶋田氏は、

――さすが寺山先生、面白い表現をするものだなあ。

 と感心し、ともに過ごした2時間があっと言う間に過ぎてしまったという。

 柴田政人調教師も、騎手時代、寺山からロングインタビューを受けたことがあった。70年代、師が20代のときだった。

 嶋田氏と違い、柴田師は、師匠の高松三太元調教師のところに寺山がちょくちょく遊びにきていたので顔見知りだった。

 そのインタビューで寺山が聞き出したのは、騎手デビュー3年目の69年に柴田師が出会ったアローエクスプレスについての話だった。

「アローエクスプレスはソーダストリームの仔でミオソチスの弟である。ミオソチスの好きだった私は、その下のアンドロメダ、モンナバンナ、フアストパレードと期待をかけつづけてきたが(中略)アローエクスプレスは、ソーダストリームが初めて生んだ牡馬だったのだ」(寺山修司『競馬への望郷』)

 寺山が初めて好きになったミオソチスの騎手が高松三太元調教師だった。そうしたつながりが背景にあったうえでのインタビューだった。

 アローに新馬戦、つつくサルビア賞を勝たせた柴田師は、3戦目の京成杯3歳ステークスの手綱を盲腸炎のため加賀武見氏に譲ることになるも、つづくオープン戦で再度騎乗し、勝利をおさめる。

 特に騎乗ミスなどしていなかったのに、その後、朝日杯3歳ステークスや皐月賞、ダービーなどの大舞台では、当時トップジョッキーだった加賀氏がアローに騎乗した。

 そうしてお手馬がほかの騎手で大舞台を勝ったり負けたりしたときの心情について、寺山は柴田師に訊ねたのだった。

 場所は、中山競馬場にわりと近い、西船橋の喫茶店。このときも1対1で、嶋田氏のとき同様、2時間ほどに及んだという。「寺山修司」と「柴田政人」が西船橋の喫茶店で向かい合い、2時間じっくり話していた……というだけで、なんかすごいなあ、と思ってしまう。

 こうして1対1でインタビューしていたことに関して、元夫人の九條今日子さんに質問してみると、寺山は、相手の本音を引き出すため、あえてそうすることが多かったようだ。

 しかし、これは冒険でもある。万が一、話が盛り上がらなかったときのことを考えると、二の足を踏んでしまう。

 何度も取材している相手でも、第三者がいると、その人に説明しながら話を進めることができて助かることもある。

 寺山修司流の1対1。もう少し考えてから、マネするかどうか決めようと思う。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。「Number」「優駿」「うまレター」ほかに寄稿。著書に『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリー『ブリーダーズ・ロマン』。「優駿」に実録小説「一代の女傑 日本初の女性オーナーブリーダー・沖崎エイ物語」を連載中。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナー写真は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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