前田長吉の新事実

2014年01月18日(土) 12:00


◆伝説の女傑クリフジの騎手、前田長吉

 今年の3歳馬を見わたすと、ウオッカやダイワスカーレットが3歳だった2007年同様、強い牝馬が目立つ。とてつもなく強い牝馬、と言うべきか。

 もしまた「牝馬のダービー馬」が登場しそうになったら、ウオッカはもちろん、その64年前にダービーを勝ち、11戦11勝で引退した女傑クリフジもメディアでたびたびとり上げられるようになるだろう。

 そのクリフジの全11戦で手綱をとったのが前田長吉である。彼は、戦時中の1943年、クリフジで第12回日本ダービーを優勝した。20歳3カ月という最年少制覇記録は、今なお破られていない。豊かな才能を持った若き天才騎手はしかし、翌44年、旧満州に出征。46年2月、シベリアの強制収容所で戦病死した。23歳だった。

 私が長吉に関する調査、取材を始めたのは、彼の遺骨がDNA鑑定で本人のものとわかり、故郷の八戸に「帰還」した06年初夏のことだった。そのとき彼の生家で、鞭や長靴などの遺品や、JRAにも残されていない競馬場の外での写真などを初めて目にしてから7年半になる。

 もちろんその間ずっと長吉の取材だけをしていたわけではないのだが、何度も八戸に行って、長吉の兄の孫であり、前田家本家の嫡男である前田貞直さんや、甥の前田喜代治さんら親族のほか、生前の長吉を知る人々に話を聞いたり、JRAの図書室や国会図書館などで過去の文献にあたるなどして、自分としては調べ尽くしたつもりになっていた。
 それでもときどき「新事実」が出てくる。

 私は物書きだから、
 ――ウッ、これ、本を出す前に知りたかったな……。

 と、まず思ってしまうのだが、「謎の騎手」と言われた長吉を知る新たな手がかりが見つかると、やはり純粋に嬉しくなる。

 ところで、今思ったのだが、この「新事実」というのは変な言葉である。それを知らなかった人にとっては「新事実」なのだろうが、当たり前のこととして知っていた人にとっては「既成事実」に過ぎず、事実そのものを主体とするなら、それ自体に「新」も「既成」もない。事実は事実だ。

 さて――。
 ここに記す「新事実」を知らされたのは、昨年の9月、前田貞直さんから届いたメールによってだった。

 そこには、私が取材先を紹介したり資料を提供した長吉のテレビ番組がオンエアされたことに関して、
「天国の長吉も、さぞ嬉しく思っていることと思います」

 と書かれていた。そして末尾に、
「8月30日に見つけた写真を添付します」
 とあった。

 添付ファイルをひらいた私は、少しの間、ポカンとしてしまった。

 ――やっぱりそうだったのか。

 それは、当時の若者が20歳になったら受ける徴兵検査の結果を記した「検査終了之證」という一枚の紙だった。

「徴兵検査ニ依リ左ノ通リ決定セラル」
 とあり、彼の氏名の上の「體格等位」の欄に「丙種」と判が押されている。
 日付は昭和18(1943)年7月23日。「北多摩郡府中町長矢嶋健吉」の名で発行されている。

 長吉は、徴兵検査を受けた結果、「丙種」に分類されたのだ。
 男子は原則国民皆兵で、1927年に公布された兵役法により、20歳になったら徴兵検査を受けることが義務づけられていた。身長、体重などを検査し、上から順に甲種、第一乙種、第二乙種、第三乙種、丙種とランク分けされ、兵役に適さない者は丁種とされた。

 私の手元にあるのは、長吉の兄弟子の保田隆芳氏が検査を受け、すぐ戦地にわたった1940年の資料なのだが、「現役に適す」とされる甲種と乙種は身長152センチ以上、「国民兵役に適す」とされる丙種は145センチ以上、「不合格」の丁種は145センチ未満で、ほかに「筋肉」「トラホーム」「視力」「耳」などを基準に検査・判定される。

 長吉の遺品である「體力手帳」には1940〜42年の彼の身長、体重などが記されており、それによると徴兵検査前年の42年、彼の身長は146.6センチだった。

 保田氏は、「兵隊が足りないから」と第一乙種から甲種に編入され、すぐ出征することになった。より兵士が不足していた3年後の長吉が即出征とならなかったのは、彼が騎手のなかでも小柄なほうで、乙種の体格にも届かなかったからなのだ。

 長吉が徴兵検査を受けたのは、クリフジでダービーを勝った1943年6月6日の翌月のことだった。あり得ない仮定だが、もし彼が無理やりにでも甲種か乙種に編入されてすぐ出征していたら、クリフジの4戦目以降はほかの騎手が乗り、競馬史が大きく変わっていたかもしれない。

 長吉が臨時召集され、戦地に出向いたのは翌年の秋のことだった。

 丙種と判定されたときの長吉の心境はどのようなものだっただろう。
 これからもクリフジに乗れる、と胸を撫でおろした半面、当時は「兵隊になれないような男なんて情けない」という見方もあったというから、複雑だったのではないか。

 多くの国民は、日本が勝つことを信じて疑わなかったという。しかし、競馬場のスタンドの鉄骨ばかりか、馬の蹄鉄を軍に供出する「除鉄」まで行わなければならなかった状況下で、本当に自軍の勝利を信じ切ることができたのだろうか。

 今回、前田貞直さんが示してくれた新事実は、そんななか旧満州へと出征した長吉の気持ちをあらためて考えるきっかけになった。

 実は、つい先日、貞直さんからもらったメールにこう書かれていた。
「長吉の資料が何点か見つかっています」

 また八戸に行かなくては。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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