2014年01月30日(木) 18:00
「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。ここでは、そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく。第2回は北村宏司。フリーとなって丸3年。師匠である藤沢和雄をはじめ、彼を見守り続けた岡部幸雄、横山典弘など偉大なるホースマンたちとの軌跡を、感謝の念を込めて振り返る。(取材・構成/不破由妃子)
現在、沖縄県と並び、公営ギャンブルの競技場はおろか、それらの場外投票券売り場すらひとつもないのが長野県。しかし、現存する日本在来馬8種のうちの1種である木曽馬を生んだ地であり、馬産地としては長い長い歴史を有する県でもある。
そんな長野県で大工を営んでいる北村宏司の父は、国体の出場経験もある馬術の選手であった。物心がついた頃には、すでに父が建てた厩舎で馬が飼われており、毎朝、馬に乗ってから学校に行くのが、北村の日常であったという。
実家では、僕が生まれる前から馬を飼っていたので、幼いころから馬には乗っていましたね。小学校低学年のころには、馬術の試合にも出るようになりました。とはいえ、長野ということもあり、決して競馬は身近なものではなく、中学1年生頃までは、“ジョッキーになる”という選択肢は僕のなかにはありませんでした。
当時の僕が興味を持っていたのは、家業である大工。でも、ある日「親父の跡を継ごうと思っている」と打ち明けたら、「流行らないから止めておけ」とあっさり言われまして(笑)。それなら馬に乗る仕事がしたいと思い、体も小さかったし、人と競うことが好きだったこともあって、ジョッキーになりたいなぁと徐々に思うようになりました。それが中学2年生の頃でしたね。
第15期生として、JRAの競馬学校に入学。入学当初は、乗馬の経験がある子ほど、それまでの癖が抜けずに苦労すると聞く。北村もまた「自己流の癖がついていたこともあって、直すのに苦労した時期もありました」というが、卒業の際には、もっとも技術が優秀だった生徒に贈られるアイルランド大使特別賞を受賞している。
そんな北村の所属先となったのが、言わずと知れた名門である美浦・藤沢和雄厩舎。近年でこそ、関西厩舎の勢いに押されている感はあるが、1995年〜2004年までJRA賞最多勝利調教師を連続受賞するなど、北村がデビューした1999年当時は、東西を通じて一強状態であった。
リーディングを何度も獲っていて、すごく有名な厩舎だということは知っていたんですが、なにしろ当時は競馬にうとかったので、そういう厩舎に所属したという実感が湧くまでに時間がかかりましたね。逆に、何もわからなかったぶん、変なプレッシャーを感じることもなく、ただひたすら慌ただしい毎日を過ごしていました。
藤沢先生は厳しい方ですが、デビュー前の実習中もデビューしてからも、直接ガツンと怒られた記憶はほとんどありません。ただ、そのぶん僕がなにか失敗をやらかしたときは、周りのスタッフが僕の代わりに怒られるという、僕としては一番つらい感じで(苦笑)。僕のせいで怒られているのを横で聞いていて、心が痛んだのを覚えています。だから当時は、1日も早く仕事を覚えて厩舎の役に立ちたい、周りの人のためにも早くいい仕事ができるようにならなくちゃと、とにかく毎日が必死でした。・・・
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