2003年10月14日(火) 17:28 0
アメリカの至宝ウィリー・シューメーカーが亡くなってしまった。72歳という年齢は、高齢化社会の近年においては早過ぎると言ってもおかしくはあるまい。最後にお姿をお見かけした、7月半ばのハリウッドパークにおけるラフィット・ピンカイJr.の引退セレモニーの時、失礼ながら随分とお年を取られたと思ったのだが、どうやらその頃から体調が思わしくなかったようだ。
彼の騎手時代の功績については、様々なメディアに掲載されているので、改めてクドクドとは申し上げるまい。
ただし、その実績同様に、あるいは実績以上に、シューメーカーという騎手がアメリカ国民の間で特別な存在であったことはぜひ記しておかなければなるまい。別の言い方をすれば、ある種のカリスマ性をもったホースマンが、シューメーカーであった。
鞍上で微動だにしない騎乗スタイルは、「まるで馬の上で音楽を聴いているようだ」とか、「馬の上で詩集を読んでいるようだ」と形容されたものだ。
シューメーカーが現役を引退した1990年、惜別の特集を組んだ『ロサンゼルスタイム』には、こんな記事が載った。「ビロードのように滑らかなタッチで馬に乗り、優雅で上品なペースで展開するシューメーカーの騎乗を見ていると、レースという戦いを見ているのではなく、まるでバレイ(舞踏)を見ているような気になる。例えば、ジョー・ディマジオがフライ(飛球)をキャッチする時のように、あるいは、フランク・シナトラがバラードを唱う時のように、動作が自然で無理がなく、しかも優雅なのだ。こういうことをするために、生まれてきた男なのだろう」。有名なコラムニスト、ジム・マーレイの記事である。マーレイは更に続けている。「シューメーカーのレースを見るという事は、ジーン・ケリーのダンスを見たり、ゴーギャンの作品を見たりする事と、共通するものがある。つまり、それは芸術なんだ」。
1991年4月に遭った交通事故で半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされたシューメーカー。いや、半身不随などという生易しいものではなかった。首から下が全く動かなくなってしまったのだ。それではどうやって車椅子を動かしていたかというと、口許に伸びたパイプを吹いたり吸ったりすることで動く特注の車椅子をあつらえ、これに乗って彼は現場に帰ってきたのである。まさに不屈の男である。サンタアニタ競馬場はそんな彼のために、スタンドから馬場に降りられるスロープを作った。
そして、ビヴァリーヒルズHで管理馬アルキャンドゥーとファイアザグルームが1、2着を独占し、調教師として初のG1制覇を果たしたのは、事故に遭った後の事だったのである。
不世出の騎手であり、稀代のホースマンであったシューメーカーの訃報に、アメリカの競馬サークルは今、深い悲しみに包まれている。
合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。