週刊サラブレッド・レーシング・ポスト

2003年11月18日(火) 10:23

 イギリスで今、あるレースの名称が変更される事が大きな議論の的となっている。

 例年1月にサンダウン競馬場で行われていた「アンソニー・マイルドメイ/ピーター・カザレット、メモリアル・ハンディキャップ・チェイス」が、「Williamhill.co.ukマラソン・チェイス」と名を変え、しかも開催時期を12月にずらすことが正式決定されたのである。

 アンソニー・マイルドメイとは、英国競馬史に燦然と輝くアマチュアジョッキーの名だ。1909年に生まれ、20世紀半ばにアマチュア・チャンピオンの座に5回つく活躍を見せたのだが、41歳の時に水死という悲劇的最期を遂げた伝説の男である。

 マイルドメイは、昨年亡くなったクイーン・マザーを障害レースの世界に誘った男としても知られている。夫のキング・ジョージ6世と共有で平地を走る現役馬を何頭が所有していたクイーン・マザーだったが、単独で障害馬をお持ちになるようになったのは、1949年のロイヤルアスコット期間中にウィンザー城で開催されたディナーの席で、マイルドメイから「障害馬をお持ちになってはいかが」と薦められたのがきっかけ。クイーン・マザーはこれを機会にモナヴィーンという障害馬を所有したのだが、このモナヴィーンの購買と調教を担当したのが、マイルドメイとは無二の親友だった調教師のピーター・カザレットだった。

 障害のリーディングトレーナーの座につくこと2回。1949年から73年までの足掛け25年にわたってクイーン・マザーの馬を預かり、通算勝ち星1100勝の4分の1近くになる250勝をクイーン・マザーの所有馬で挙げたピーター・カザレットもまた、英国競馬界では伝説の人物だ。1956年のグランドナショナルで、先頭に立ったクイーン・マザーの所有馬デヴォンロックが、疲労困憊のあまり実際には存在しない幻の障害を飛越。バランスを崩して、後に高名なミステリー作家となるディック・フランシス騎手が落馬するという、競馬ファンなら誰でも知っているあの逸話の主役となったデヴォンロックの調教師がピーター・カザレットだったのである。

 サンダウンのレースは、アンソニー・マイルドメイの死後3年を経過した1953年に、故人を偲んで創設。その20年後の1973年に親友のピーター・カザレットが亡くなると、レースはふたりの偉大なホースマンを偲んで、両名の名が併記される形に変わった。以後、30年に渡ってファンに親しまれてきた、偉大な先人の名が冠されたレース名が、消滅してしまうのである。

 実はここ3年ほど、サンダウンの「アンソニー・マイルドメイ/ピーター・カザレット、メモリアル・ハンディキャップ・チェイス」は、悪天候のため中止の憂き目にあっていた。真冬の開催には、降雪や馬場の悪化によるレースの中止がつきものだが、3年連続となるとやはり尋常なことではない。主催者側としてはまず、時期を移すことを検討。その結果、レースの性格からして、12月末にチェプストウで行われるコーラル・ウェルシュ・ナショナルのプレップレースとすべく、12月初旬に持ってくるのがベストと判断。そうなると、既にウィリアムヒルがスポンサードしている開催に移行するのが良かろうという事になり、マイルドメイ家、カザレット家それぞれの遺族に了承を得た上で、レース名を変更することになったのだ。

 遺族はともに「これも時代の流れ」と比較的冷静に受け止めているが、生前のアンソニー・マイルドメイやピーター・カザレットを知る世代にとっては、実に寂しいことだ。過去の偉人を讃える事が文化とすらなっている国だけに、しばらくはファンも巻き込んでの喧騒となりそうである。

バックナンバーを見る

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

新着コラム

コラムを探す