2014年05月31日(土) 12:00
◆偉大な先駆者たちが培ってきた「共有財産」
「世界で通用した日本人騎手って、現れていないでしょう」
5年以上前になるが、若手騎手がそう言ったのを聞いて「ウーン」と思った。その言葉の先には「だから自分が目指したい」だとか、「だから外国人騎手を手本に頑張りたい」といったつづきがあったのかもしれない。
まあ、そのうちいろいろなものを読んだり、人の話を聞いたりしているうちに見方が変わるだろう、と、私は何も言わなかった。
ときは百年ほどさかのぼり――。
明治39(1906)年秋、東京の池上競馬場で日本人による初めての馬券発売をともなう洋式競馬が4日間行われた。主催者は東京競馬会。「日本競馬の父」と呼ばれる安田伊左衛門(「安田記念」のレース名はこの人物に由来する)が同会の常務理事をつとめた。
その開催は大盛況のうちに終わり、翌明治40年以降、全国に類似の競馬会が続々と誕生し、日本は初めての「競馬ブーム」に沸いた。
ところが、主催者による不正や、馬券で家を傾ける者などが続出して社会問題となり、明治41年10月、政府によって馬券の発売が禁止された。日本初の競馬ブームは2年足らずのうちに終わってしまったのである。
それでも競馬はつづけられた。「軍需資源である馬匹の強化における実験の場」と位置づけられていたからだ。
しかし、資金の乏しい競馬はジリ貧になっていく一方だった。このままではいけない、と危機感をつのらせた関係者は、国外に活路を見いだした。そして、明治42年秋、調教師や騎手、下乗り20数名と50頭ほどの馬が、ロシアのウラジオストックで行われた「日露大競馬」に大挙して遠征した。安田伊左衛門が所有した芦毛の名馬スイテンが5戦5勝の戦績をおさめたほか、二本柳省三(二本柳壮騎手の曾祖父)が騎乗した馬も勝利をおさめるなど、日本の人馬が大活躍した。
この日露大競馬は単発のイベントであり、しかも、大正12(1923)年に安田伊左衛門の尽力で旧競馬法が成立して馬券発売が再開される前のことなので、「前史」というあつかいになるのはやむ得ないのかもしれない。
その後、太平洋戦争敗戦を経て、日本競馬会によって主催されていた競馬は、GHQの意向により国営競馬という形で行われるようになった。それが昭和29(1954)年秋に創設された日本中央競馬会によって引き継がれ、今年、JRA創立60年を迎えた、というわけだ。
話を騎手の海外遠征に戻す。
戦後初めて海外に遠征した日本の人馬は、昭和33(1958)年春、アメリカ西海岸に出向いた保田隆芳氏とハクチカラだった。これが日本初の馬の空輸。飛行機の座席をとり払ってハクチカラをつなぐスペースをつくり、トラックの荷台にハクチカラの入ったコンテナを載せ、人間用の乗降口から機内に乗り込ませた。「バンザーイ」の合唱で見送られて羽田を飛び立ち、保田氏が検温したり水を与えたりという厩務員業務をこなしながら、コールドベイ、シアトルなどを経由してロサンゼルスを目指した。乗っていたのは、パイロットを含む航空会社の職員と、保田氏、商社の通訳、そしてハクチカラだけ。尾形藤吉厩舎の主戦騎手だった保田氏は、このとき38歳。アメリカでジョッキーライセンスを取得できるという保証はなかったが、ニュース映画でケンタッキーダービーなどの映像を見て、
――自分たちも彼らと同じ乗り方をしなければ、世界の流れからとり残される。
と思い、志願してハクチカラに帯同した。
アメリカで勝ち鞍を挙げることはできなかったが、鐙を短くして馬の首に張りつく「モンキー乗り」を現地で習得。その年の秋に帰国し、遠征前とは異なる、かろやかなフォームで勝ち鞍をかさね、日本にモンキー乗りを定着させた。
この年は東京タワーが完成した年でもあるので、「日本の(競馬場の)眺めが変わった年」と覚えるといい。東京タワーが333メートルだと思い出せば、昭和33年というのもパッと出てくるはずだ。
「ミスター競馬」野平祐二氏が、日本人騎手による戦後初勝利を挙げたのは、保田氏がアメリカに行った翌年、昭和34年12月12日のことだった。31歳だった。場所は、オーストラリア・シドニーのカンタベリー競馬場。ワールドスーパージョッキーズシリーズのような騎手招待競走だった。野平氏は、その10年後の昭和44(1969)年、スピードシンボリで日本人騎手として初めてフランスの凱旋門賞に参戦するなど、「世界」の重い扉を押し開けようとした。
保田氏と野平氏のふたりが、戦後、日本人騎手が海外で騎乗するようになった「起点」をつくったと言っていい。
その起点から、世界への道をさらにひろげ、踏み固めたのが岡部幸雄氏だった。
デビュー6年目、23歳だった1972年(70年以降は西暦表記にする)夏、アメリカ西海岸のデルマー競馬場で海外初騎乗を果たし、13年後の85年7月、当時の西ドイツのハンブルグ競馬場で海外初勝利を挙げた。その翌月にはデルマー競馬場でアメリカ初勝利をマーク。これは日本人騎手によるアメリカ初勝利でもあった。
98年にはタイキシャトルでフランスのジャックルマロワ賞を勝ち、悲願の海外GI初制覇を達成。50歳になる年のことだった。
岡部氏が拓いた道を駆け抜け、羽ばたいたのが武豊騎手だ。
デビュー3年目、20歳だった89年にアメリカで海外初騎乗を果たし、その遠征で海外初勝利を挙げた。91年にはニューヨーク州のサラトガ競馬場でセネカハンデキャップを勝ち、日本人騎手として海外重賞を初制覇。94年にはスキーパラダイスでフランスのムーランドロンシャン賞を勝ち、日本人騎手による史上初の海外GI制覇。このとき25歳。4年後の98年夏、岡部氏がジャックルマロワ賞を勝つ前週にシーキングザパールでモーリス・ド・ゲスト賞を制し、日本調教馬による海外GI初制覇を達成するなど、海外の重賞を19勝、うちGIを7勝という成績をおさめている。
保田氏、野平氏、岡部氏、武騎手が世界初戦を経験した年齢は、時代が新しくなるにつれ低くなっている。後進たちが、先達が内外の競馬界に築いた「共有財産」を生かしてきたからだろう。
アメリカで騎手として活躍したウィリアム・シューメイカー氏(1931-2003)は、通算8833勝の世界最多勝記録を保持していたレジェンドである。保田氏より11歳下で、岡部氏より17歳上だ。
調教師をしていた晩年のシューメイカー氏と武騎手が食事をしたとき、
「ユキ(岡部氏)はどうしている?」
と氏は武騎手に訊き、騎手時代、東京競馬場の地下馬道が迷路のようだったので迷っていたところを岡部氏に助けられた話などをしていた。
保田氏がハクチカラとともに遠征したときも、シューメイカー氏は、ともに写真におさまっている。そうした写真を見たり、シューメイカー氏の口から出る岡部氏に関する言葉を聞いたりすると、氏が、保田氏や岡部氏らを自分と同じステージにいるプロフェッショナルとして認めていることが伝わってくる。
ランフランコ・デットーリ、オリビエ・ペリエ、そしてユタカ・タケが、世界の大舞台で互いが同じ場にいることを、「普通に認め合っている」のと同じである。
「通用する」とか「活躍する」といった次元よりずっと上のステージに、偉大な先達は立っていた。それを、同じ職業に就いた後輩たちが知らずにいるのは部外者の私から見てもちょっと寂しいし、前述した「共有財産」の存在に気づかずにいるのはもったいないと思う。
先駆者たちの足跡と、なし遂げたことの意味をわかったうえで騎手になると、「自分が騎手であること」の誇りを、もっと強く持てるようになると思うのだが、そんなふうに考えるのは余計なお世話だろうか。
といった話を、先週会った後藤浩輝騎手としていた。競馬学校の同期である小林淳一競馬学校教官に、機会があればそうしたカリキュラムの追加を検討するよう伝えておいてください、とも。
後藤騎手も、20代のときアメリカに単身乗り込み半年間滞在し、7勝を挙げている。
それはいいとして、「ゆっくり休んでください」とか「しっかりリハビリしてください」などと言っておきながら、長い話に付き合わせてしまったことを、今になって反省している。
さて、いよいよ今週「競馬の祭典」日本ダービーが開催される。
毎年、最年少ダービージョッキー・前田長吉の甥(妹・しげさんの息子)の中居勝さんが青森から観戦に来て、パドック脇であれこれ話すのが恒例になっている。中居さんのほかにも、普段は競馬場に来ない人たちと顔を合わせるのがダービーだ。
特別なレースにふさわしい熱戦を期待したい。
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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