2004年01月27日(火) 13:22
先週に続き、今週も騎手に関する話題をお届けする。だが、先週は明るい話題だったのに対し、今週の話題は暗澹たる気持ちにさせられるものだ。
日本の皆様にはサンデーサイレンスの現役時代の主戦としてお馴染みの、西海岸のトップ騎手パトリック・ヴァレンズエラ。17歳の時に史上最年少でサンタアニタダービーを制したのを皮切りに、ブリーダーズC7勝を含めて数々のビッグタイトルを獲得してきた、アメリカでも指折りの腕利きである。03年はこれまで以上に絶好調で、サンタアニタの冬/春開催、ハリウッドパークの春/夏開催、デルマーの夏開催、サンタアニタのオークトゥリー開催、ハリウッドパークの秋開催と、カリフォルニアのメジャー5開催すべてでリーディングを獲得するという、83年のクリス・マッキャロン以来20年振りとなる快挙を達成した。
その一方で、ヴァレンズエラと言えば、クスリに関するトラブルでも有名な男だ。サンデーサイレンスがBCクラシックを制した時にも薬物使用が発覚して騎乗出来なかったのをはじめ、小さいものまで含めればクスリが原因で騎乗停止や免許停止を受けた回数が8回という、ブラックリストの最上位にデカデカと名前が記載されている札付きのジョッキーである。
そのヴァレンズエラが、またやらかした。
1月23日(金曜日)、カリフォルニア・ホース・レーシング・ボード(CHRB)から義務付けられていた定期的な薬物テストをすっぽかし、またも騎乗停止処分を受けたのである。
私だけでなく大半の日本人にとって、01年12月にCHRBがヴァレンズエラに対する免許停止処分を22カ月振りに解き、彼に再び騎乗機会を与えたことは、大きな驚きだったはずだ。00年2月に違法薬物の使用が見つかった時には、もうこれでヴァレンズエラも一巻の終わり、競馬界から永久追放だろうと私は思ったし、日本であったら再三再四薬物で捕まった騎手が免許を交付されるなど、考えられない事だ。
だが、更生した人間には雇用機会を与えることが原則のアメリカでは、条件つきながらヴァレンズエラにライセンスを発給されたのである。その条件とは、CHRBの監督の下、定期的なテストを受け、違法かつ危険な薬物の使用がないことを証明することであった。01年12月以降、ヴァレンズエラは各競馬場の裁決委員の前でテストをクリアして見せ、前出のような活躍をしてきたのである。
ヴァレンズエラは1月22日(木曜日)、本人の申告によれば足首を傷めたとして、予定されていた騎乗をキャンセル。この時は本人から裁決に電話連絡があり、裁決はヴァレンズエラに対して、騎乗出来なくても薬物テストは受けなけらばならない旨を通達した。ところが金曜日にヴァレンズエラは競馬場に現れず、全く連絡が付かない状態となったのだ。 ここ最近のヴァレンズエラには、おかしな兆候はあった。1月18日(日曜日)、コンビを組んでいたエージェントのニック・コサトを突然解雇。コサトと言えば有名なトップエージェントだし、事実コサトがアレンジした騎乗馬でヴァレンズエラは5開催連続リーディングを獲得したのだから、このニュースには誰もが驚かされたものだ。
1月23日(金曜日)、新たに雇ったエージェントのコーリー・ブラックにも行く先を告げず、雲隠れしてしまったヴァレンズエラ。午後4時30分に薬物テストの受付窓口が締め切られ、CHRBは直ちに、ヴァレンズエラの騎乗停止を発表した。
今度こそ、名手の騎手生命は断たれてしまうのか。今後の推移を見守りたいと思う。
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合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。