2015年06月08日(月) 18:00
【前回までのあらすじ】 容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、馬の仕上げ方を変えた。敏感になって扱いにくくなった担当馬に、厩務員のゆり子が弾き飛ばされた。
厩舎を出たシェリーラブが、突然、後ろ脚で立ち上がった。曳き手綱を持っていたゆり子が弾き飛ばされ、馬道に投げ出された。
――何をやってるんだ。
伊次郎は、右手を頭上にかざし、手のひらをシェリーラブに向けた。
「ほーら、いい子だ」と伊次郎が言うと、シェリーラブは後ろに絞っていた耳をこちらに向けた。
「よーし、よし」と、ゆっくりシェリーラブに近づき、曳き手綱をつかんだ。そして、うつぶせていたゆり子を左腕で抱え上げた。幸い、近くに他厩舎の馬はおらず、騒ぎにはならなかった。
しかし、だ。
――おい、冗談だろう。
伊次郎は驚いていた。シェリーラブの暴れっぷりにではなく、左腕で抱えたゆり子の軽さに、である。
子供のころ、ひと目見ただけで他人の体重を言い当てることを特技としていた伊次郎は、今でも、人や馬の体重を正確に見抜く自信がある。
ところが、ゆり子に関しては、少なくとも5キロは見誤っていた。160センチ弱の身長にしては細めの45キロぐらいだろうと思っていたのだが、こうして抱えた感じでは、40キロを切っているかもしれない。
――ひょっとしたら、こいつ、深刻な病気なんじゃないか……。
顔色もよくないし、昨夜のほころびのマスターの言葉も気になっていた。
先にシェリーラブを馬房に戻し、それからゆり子を大仲の椅子に座らせた。
気を失っていると思っていたのだが、薄目をあけてこちらを見ている。
「せ、先生……」と言う唇が切れて、血がにじんでいる。 「ゆり子、何があったんだ」と伊次郎は床に膝をつき、顔を覗き込んだ。ゆり子が小さく口を動かし、何かを言おうとしている。
「わ、わたし……」と絞り出すように言ったゆり子の目から涙が流れ出した。 「どうしたんだ」 「……」 「なんだって?」
聞きとれなかったので、ゆり子の口元に耳を近づけた。吐息が少しくすぐったい。
「お……」と、ゆり子。 「お……、なんだ?」 「お腹が、すいた」 「は?」
全身から力が抜けた。
グルルルーッと、ゆり子のお腹の鳴る音が聞こえた。
「お前、ダイエットでもしてるのか」 「違うよ」 「じゃあ、なんでブッ倒れるまでメシを食わずにいるんだ」・・・
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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