本能にもとづく行為

2015年07月02日(木) 12:00


宝塚記念のラブリーデイとゴールドシップ

 本能にもとづく行為、それは喜ばしいし、多くは楽しいことだ。楽しいからこそそれを為すと言ってもいい。遊びが正にそれだし、遊んでいるときの顔色はかがやいている。また、血行がよくいきいきとしている。その本能にもとづく行為が、時折、困ったことになることもあると、ゴールドシップは示している。だが、困っているのは人間の方だけで、ゴールドシップ自身は、ただ本能にもとづく行為を為しているにすぎないのではないか。本来のすがたがそこにあるのであって、別にそれ以外の何ものでもないのではないか。何もかもも含めて、全てが競馬なのだと、改めて実感した宝塚記念だった。

 ゴールドシップの本能にもとづく行為、それが喜ばしいとは思えないが、競馬のある側面だけで捉えると、それでもいいのだと言う者もいるのだから、複雑だ。それもこれも全部含めて、人間は本能にもとづいて競馬をやっていて、何もかもも含めて喜ばしく、楽しいのだ。ゴールドシップの気分がどうであれ、それとは関係なく、本能の趣くままに楽しんでいいのが競馬なのだと、これを機会に確認しておくのがいいと思った。それにしても、ゴールドシップがそういう競馬をどう思ってターフに登場しているのだろうか。人間が、こうしてほしいと願っていることを承知しているか。いや、そうとは思えない。傍に馬が近寄ると威嚇するのは、どう仕様もないことで、これこそ本能にもとづく行為そのものなのだ。それが人間には都合が悪いと言うだけであって、ゴールドシップにとっては関係ないこと、そういうことだ。強要されることのない楽しさを、その瞬間味わっているのかもしれない。人間だってそうではないか。本能にもとづいて競馬を楽しんでいるので、決して強要されていない。考えてみれば、おたがいさまなのだ。

 競馬は、人間と馬とがどう折り合いをつけるかが重要で、どちらかが勝手に好きなように結論づけることはできない。特にレースとなればなおのことだ。宝塚記念を勝ったラブリーデイは、長距離を2度走ったことで折り合い面が格段に良くなったが、これは強要されたのではなく、馬自身が体得したのだった。本能にもとづくものになれば本物だ。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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