週刊サラブレッド・レーシング・ポスト

2004年05月11日(火) 20:57

 自らの年金未納を「個人情報」として公開を拒み、結局隠し切れなくなって職を辞すことになった官房長官が、どこかの国にいた。犯した罪の軽重を問わず、自らの旧悪は隠したくなるのが人情だが、結局は、包み隠さず詳らかにし潔く反省と謝罪を述べた方が、身のためになることは間違いなさそうだ。

 それは、身の処し方としては洋の東西を問わず共通の認識のようで、今、この事で深い悔恨の念に苛まれているのが、1日のケンタッキーダービーでスマーティージョーンズを駆って、初出場初制覇の快挙を成し遂げた、スチュアート・エリオット騎手なのである。

 今年39歳のエリオットは、すでに15年以上にわたってペンシルヴェニア州ではトップジョッキーの座を守り続け、通算勝利も3200を超えている男だったが、アメリカ競馬の檜舞台においてはほとんど無名の存在であった。例えば、ケンタッキーダービーの翌々日、ホームグラウンドであるフィラデルフィアパークに戻ったエリオットが最初に騎乗したレースは7500ドル、日本円にして80万円足らずのクレイミングレースであった。地区によって馬の質も賞金のレベルも格段に違うのがアメリカで、要するに普段はそういう場所で乗っている騎手が、スチュアート・エリオットなのであった。

 最終的には1番人気でケンタッキーダービーのゲートに向かったスマーティージョーンズだけに、そして、トップホースにはトップジョッキーが乗るのが当たり前のアメリカだけに、馬主のチャップマン夫妻や管理するジョン・サーヴィス調教師が、名の通った騎手にスイッチすることなく、これまで通りエリオット騎手とのコンビでダービーに臨んだことは、ある種の美談として伝えられていたのであった。

 ケンタッキーダービーが初出場だったばかりか、ケンタッキー州で乗ることすら初めてだったエリオットは、ダービーでの騎乗を前にして、ケンタッキー州の騎手ライセンスを取得する必要があった。これ自体は対して煩雑な手続きでなく、概ねはつつがなく終わるのだが、ここでエリオットは自らの良心に背く小さな過ちを犯してしまったのである。

 ライセンスの申請用紙には幾つかの質問事項があり、その中の1つが『過去10年における犯罪歴』を問う項目だったのだが、この質問に対するエリオットの回答は“No”。「私には過去10年、犯罪歴がありません」と回答して、エリオットは申請用紙を提出していたのであった。

 ところが、エリオットには今から4年前の2000年、ニュージャージー州のバーで友人と喧嘩沙汰を起こし、逮捕されるという過去があったのだ。ビール瓶やビリヤードのキュー、更には店の椅子も振り回すという大立ち回りをやらかし、1年間の執行猶予つきながら暴行傷害で有罪となり、被害者の治療代13900ドルの支払いを命じられたのであった。

 その事実が、ケンタッキーダービーの終了後に、明らかになったのである。

 “No”という回答が、意図的になされた虚偽の申告だったのか、それとも、うっかりミスだったのか。事実が判明して以降、当のエリオットが口を閉ざしているため真実は藪の中だが、巡ってきたケンタッキーダービー騎乗という生涯最大のチャンスを逃したくないがために、『魔がさした』というあたりが真相なのだろう。

 ケンタッキー州競馬委員会では、ダービー優勝の記録が書き換えられるようなことは絶対に無いとしながらも、懲罰委員会を開いた上でエリオットに対して何らかのペナルティーを課すことを決定。2冠目となるプリークネスSにおける騎乗も一時は怪しい雲行きになったが、こちらはが管轄するメリーランド州競馬委員会から「問題なし」との発表があって、騎乗がかなう事になった。

 暴行傷害については、既に償いを済ませているのだから、今さらとやかく言われる筋合いのものではない。だからこそ、なぜ、エリオットは旧悪を隠蔽しようとしたのか。

 アメリカ競馬に新たなヒーロー誕生というムードに、いささかなりとも水をさした格好になっただけに、至極残念なニュースである。

バックナンバーを見る

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

新着コラム

コラムを探す