“巨星堕つ”豪州競馬史を代表する伯楽バート・カミングス調教師が逝去

2015年09月02日(水) 12:00


失礼ながら風貌は鬼瓦を連想させるも人柄は謙虚で、礼節を重んじる人物だったカミングス調教師

 豪州における国民的レース「メルボルンC」を12回制し、『Cups King/カップスキング』の異名をとった、豪州競馬史を代表する伯楽バート・カミングス調教師が、かねて療養中だったところ、8月30日(日曜日)早朝に息を引き取った。享年87歳だった。

 御子息のアンソニー・カミングス氏によると、2日前の28日(金曜日)に61回目の結婚記念日を迎えたヴァルメイ夫人をはじめ、多くの家族に看取られながらの大往生であったという。

 ジェームス・バートロミュー(バート)・カミングス氏は、1927年11月14日に、調教師ジム・カミングスの子息として、南オーストラリア州の州都アデレイドの近郊にあるグレネルグという街に生まれた。

 父の厩舎で働きはじめた彼は、厩務員として担当していたコミックコートが、1950年のメルボルンCに優勝。“The race that stops a nation=国の動きを止めるレース”の優勝トロフィーとバート・カミングスの、ファーストコンタクトは実にこの時であった。

 26歳となった1953年の7月に調教師ライセンスを取得し、自らの厩舎を開業。5年後の1958年に、ストーミーパッセージでサウスオーストラリアンダービーを制し、G1初制覇を達成。以降、今日まで積み上げたG1勝利は、豪州における歴代2位の266勝(首位はT・J・スミス師の279勝)に達している。そして同じ1958年、管理馬エイジアンコートが、カミングス調教師にとって初めてのメルボルンC出走馬となっている。

 更に7年後の1965年、ライトフィンガーズで自身初めてとなるメルボルンC優勝を達成。「カップスキング伝説」の幕が開いた。これを含めて、7つのG1を手中にした65/66年シーズンに、カミングス師はこれも自身初めてとなるチャンピオントレーナーの称号を獲得している。

 1970年代に入るとカミングス厩舎の快進撃は更に加速。73/74年シーズンには、豪州競馬史で初めてとなる、年間収得賞金が100万ドルの大台を突破。74/75年シーズンには、G1勝ち馬を10頭手がけ、合計で20ものG1を制するという縦横無尽の活躍を見せ、ABCが選定する年間最優秀スポーツ選手賞を受賞している。

 1982年には、競馬界で果たしてきた貢献が認められて、オーダー・オブ・オーストラリア(オーストラリア勲章)を受賞。1991年にはオーストラリア・スポーツ界の殿堂入り。そして2001年にオーストラリアにおける競馬の殿堂が設立されると、T・J・スミスやC・ヘイズらとともに、最初の殿堂入りメンバーの一人に選ばれている。

 バート・カミングス師が、彼にとって最後のメルボルンC制覇をヴュードで果たしたのは、2008年のことだった。メルボルンCの勝利数で彼に次ぐ第2位の座にあるのは、それぞれ5勝を挙げているE・ド・メストレ師とL・フリードマン師だから、カミングスの12勝が永遠不滅の大記録と言われるのも当然なのである。

 カミングス師が、慢性の喘息持ちであったことは、よく知られている。症状が最もひどかったのは、彼が10代だった頃で、担当医は、馬の毛が舞い寝藁から埃が上がる馬舎は、喘息持ちにとって最悪の環境と指摘。喘息を治したければ、馬から離れなさいと強く勧めたが、カミングス少年にとって受け入れられる忠告ではなく、喘息と上手に付き合いつつその後の生涯を送ることになった。

 カミングス師は、84年のバウンティホークを皮切りに、スカイチェイス、シャフツベリーアヴェニュー、レッツイロープらを黎明期のジャパンCに参戦させている。ところが、日本と豪州を結ぶ直行のカーゴ便がなくなってしまった96年、コックスプレートとメルボルンCを連勝しての来日だったセイントリーが、24時間以上かけて輸送してきた末に、到着後の日本で体調を崩して出走取り消しの憂き目に遭い、以降は「直行便がないなら、もう行かない」と、ジャパンCに見向きもしなくなってしまったのは残念であった。

 失礼ながら風貌は鬼瓦を連想させるカミングス師だったが、人柄は謙虚で、礼節を重んじる人物というのが、彼に会った誰もが抱く印象だった。

 カミングス師の逝去に際し、「オーストラリアは、スポーツ界の巨人であり、競馬界の伝説であった人物を失った。スポーツの世界で、彼ほど圧倒的な支配を続けた存在は稀である。彼の居ない競馬場は、これまでと同じでありえない」という追悼のコメントを発表したのは、トニー・アボット首相だった。

 そしてその葬儀は、9月7日(月曜日)の午前10時から、シドニーのセントメアリー大聖堂で、ニューサウスウェールズの州葬として執り行われることになった。

 バート・カミングスの名前が、豪州でどれだけ大きなものだったか、亡き後に改めて知らされた思いである。

 11月3日に行われる今年のG1メルボルンCは、おそらく、カップキングスを弔う形で行われることになるであろう。

 巨星堕つ。この四文字が、これほど相応しい人物も他にいなかろう。合掌。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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