笠松競馬廃止反対運動

2004年09月21日(火) 22:33

 岐阜県笠松競馬場が危機に瀕している。去る9月13日、岐阜県の第三者機関である「経営問題検討委員会」(笠松競馬の存廃について検討する委員会。委員24名)が、中間報告としてまとめた内容を発表した。

 それには「利益確保の見通しがなく自立的な経営は困難で、速やかに廃止すべき」とあり、これを受けて翌14日付けの地元紙が、委員会の中間報告を詳しく報道した。

 更に翌15日にはスポーツ紙各紙も競馬欄などで、このニュースを取り上げることとなり、一気に全国津々浦々まで「笠松競馬廃止か?」の大きな見出しが広がる事態に陥った。

 周知の通り、笠松競馬場は、かつてオグリキャップ、ライデンリーダー、オグリローマンなどの名馬を輩出。また、現在中央競馬で活躍する安藤勝己騎手の故郷でもある。

 しかし、各紙が伝えるように、馬券売上げは1980年(昭和55年)の445億円をピークに減少が続き、昨年度は約173億円まで落ちていた。これに伴い単年度収支でも1993年から赤字に転じ現在に至っているという。一時は58億円もの基金を積み立てていたが、昨年度にはそれも5億5千万まで目減りし、今年度で底をつく可能性もある、とか。

 以上、新聞で知り得た情報のみ列記してみたが、今回の報道を受けて笠松の厩舎の人々は即日のうちに行動を開始した。その一つが署名活動である。

 母体となったのは、「笠松・愛馬会」(後藤美千代・代表)。聞いたところによれば、この愛馬会は、今春より自発的に笠松競馬を盛り上げるための様々な活動を始めており、これまでにも、競馬場の美化(入場門付近の草刈など)や、フリーマーケットの開催、開催日のあいさつ運動(この時にはキャンディー配りもしていたらしい)などなど、お金をかけずにすぐにでも出来ることを率先して実施してきた団体だという。構成員はいわゆる厩舎関係者の奥さんや娘さんなどの女性陣。JRAの中京競馬開催日には、のぼりを立てて笠松競馬のPRのために手弁当で出かけたこともあったそうだ。

 馬券売上げの減少に伴う諸経費の削減は、まず馬主を始め、厩舎関係者の生活に直接響く。進上金の減額と在厩馬の減少というダブルパンチに見舞われながらも、しかし、何とか競馬場に再び活気を取り戻したいという熱い思いが彼女たちの原動力となり、春以来地道な活動を継続してきたわけである。

 そんな矢先の「廃止」報道。折しも、13日より17日までの5日間は笠松競馬の開催中とあって、厩舎の男性たちはみんな本来の“仕事”に従事しなければならない。身動きの取れない男性陣に代わり、すぐ立ち上がったのが、この「笠松・愛馬会」だったわけだ。

 「笠松競馬場存続のお願い」と題する一文は、厩舎関係者の絞り出す悲鳴に似ている。「(前略)笠松競馬場は、単なるギャンブル施設ではなく、身近な動物とのふれあいの場、やすらぎの場、憩いの場として県民の貴重な財産であると考え」「廃場となることなく存続し発展することを切に願い関係者一丸となって取り組んで行く所存です」「なにとぞご支援のほどよろしくお願い申し上げます」と綴られた文書が名簿用紙と共に私の元に届いたのは16日深夜。神奈川県在住の友人を経由しての依頼で、「即日のうちに集められるだけ集めたいらしい」と聞かされた。

 結果的には拙速のそしりを免れない面もあっただろうが、しかし、笠松の動きは、同じく先月廃止報道の出た北関東の2競馬場と比較すると問題にならないほどの素早い対応だった。この神奈川県在住の友人から日高に住む4人の生産者に署名活動への協力依頼があり、17日だけで計350人分の署名を集めることができた。「とにかく急いで欲しい」との依頼ゆえに、とても片っ端から各牧場を回ることなど不可能で、私の場合は町役場などに署名簿を持ち込んで協力を仰いだ。

 反対運動が今後どこまで大きなものになるかは未知数だが、とりわけ厩舎関係者にとっては自身の職場を失うことになり、競馬場がなくなった後の「現場の人々のその後」についてはすでにいくつもの“実例”が示している。

 とにかく、今後しばらく笠松から目を離せない状況であることだけは間違いない。

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田中哲実

岩手の怪物トウケイニセイの生産者。 「週刊Gallop」「日経新聞」などで 連載コラムを執筆中。1955年生まれ。

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