ヤマノシラギクが残した蹄跡

2004年12月08日(水) 12:07

 粘り強く、そして諦めない、そうしたタフな姿に心打たれるとき。この時代、特にそんなものに胸打つのではないでしょうか。ハルウララのように負け続けても、その都度立ち上がるところに、競馬を超えた感動を覚えたのも、そうした今をあらわしていました。

 あれは競馬の邪道という醒めた見方もありましたが、決められた枠からはみ出たところに魅力を覚えた一年ではなかったかと思えます。常識を覆すもの、いつもそういうものを捜し続けているようです。

 その昔、ヤマノシラギクという牝馬がいました。栗毛の馬体で顔だけが異様に白い馬で印象に強く残っている馬ではないでしょうか。2歳の後半から3歳にかけてはクラシック戦線に名をとどめていました。途中骨折があったものの、オークストライアル4着、本番オークスがシャダイアイバーの6着と頑張っていました。休養をはさんで登場したその年の秋の神戸新聞杯から6歳7月の金鯱賞まで40戦し、走りに走り続けました。その後3ヶ月笹針を打って休養し、その秋の京都大賞典から天皇賞、ジャパンC、有馬記念と走ってターフを去りました。昭和56年6月から60年12月まで走って56戦7勝という記録を残しましたが、ヤマノシラギクの残したものはそれだけではなく、全国10ヵ所の中央競馬の全ての競馬場で走ったという大きな記録も残しました。札幌、函館、新潟、福島、東京、中山、中京、京都、阪神、小倉と転戦した蹄跡は、ヤマノシラギクの大きな勲章でした。

 競走馬はタイトルをどれだけ獲得するかに心血をそそいでいます。自らの血の証しを立てるためにです。しかし、その他に、自身がどう奮戦したかも、競馬の興趣を盛り上げる大きな力になります。ヤマノシラギクのように全場を転戦するということも、称賛に値することで、一定の基準をつくってボーナスを出すようなことがあってもいいのではないでしょうか。もうひとつの競馬です。

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長岡一也

ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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