2018年06月07日(木) 12:00
安田記念が行われた日、東京競馬場で最年少ダービージョッキー・前田長吉(1923-1946)の甥の中居勝さんに会った。勝さんは、長吉の4歳下の妹・しげさんの長男だ。今は青森在住なのだが、以前タクシーの運転手として東京競馬場に出入りしており、何人もの騎手や調教師を乗せたことがある。当時はまだ長吉の遺骨が戻ってきていなかったので、クリフジに跨った写真が展示されている競馬博物館によく手を合わせていたという。
その競馬博物館に勝さんと一緒に行き、岡野伊佐夫館長を紹介し、3人で話していた。そこに、中央競馬ピーアール・センターの専務で、かつて東京競馬場の場長だった増田知之さんが加わった。『ニッポン競馬のからくり』などの著作があることでも知られ、先日、『血統と系統と伝統。』(東邦出版)を上梓した増田さんは、「ミスター競馬」野平祐二(1928-2001)の娘婿でもある。
前田長吉より5歳下の野平祐二は、尾形藤吉厩舎で長吉の弟弟子(おとうとでし)だった。
1942年に入門した野平は、下乗り時代、翌年長吉の手綱で変則三冠馬となるクリフジの下唇に指を入れ、クリフジが目を細めるのを眺めていたという。クリフジが変則三冠を勝った43年、野平は15歳、長吉は20歳。当時、尾形厩舎は、現在競馬博物館が建っているあたりにあった。若かりしふたりが一頭の名馬を見つめた75年後に、その縁者が同じ場所に立ち、談笑していたのだ。
楽しい時間だった。
安田記念を勝ったのは、連闘で臨んだ9番人気のモズアスコットだった。
私はこの馬から買っていたので、珍しくプラスになった。といってもそれほどの額ではない。せいぜい美味いものを何回か食いに行ける程度だ。それも、ひとりぶんを何回か、という意味である。別に、奢りたくないからこんなことを言っているわけではなく、単複と馬連を至極常識的な額で買っていただけだったのだ。
それに、残念ながら、誰かにご馳走したくても、翌日朝一番の飛行機で札幌に来てしまったので、奢ることができない。不思議なもので、たまに馬券で勝つと、そのあとすぐ遠出して知り合いに会わないスケジュールになっていることが多い。ここ20年ほどずっと「ぼくは根がセコいんです」と言いつづけてきたのだが、スケジュールまでセコくなってしまった。
生家に近いガソリンスタンドで、どのくらいの頻度でやっているのかはわからないが、給油した客に生卵をワンパッケージ配るサービスデーがある。その日は道にまでクルマの列がハミ出している。卵目当てでわざわざ並ぶ、私に感覚の近い人がこんなにいるのかと思うと嬉しくなる。もちろん私も給油に行く。先月来たときも、たまたまその日に当たった。
私の前の客がレジで金を払ったあと、店員が「あちらで卵をお配りしています」と別室を指さした。しかし、私が払ったときは何も言わなかった。少し傷ついた私は、恨めしげに別室に目をやった。すると店員が慌てて「よろしかったら卵をどうぞ」と付け加えた。
卵をもらえないくらいで傷つくことなく、黙って回れ右をして帰ることができるようになる日は来るのだろうか。
今回札幌に来たのは、父を検査入院させるためである。
そのついでというわけではないのだが、母方の伯父と一緒に、私から見た高祖父の戸籍謄本をとるため市役所に行き、数十年ぶりに墓参りをしてきた。母の旧姓は堀川。その伯父は母の兄なので、中居勝さんから見た前田長吉と同じ関係だ。
高祖父は千歳川のほとりで造船所を経営して財をなした。「堀川に金がなくなったときは、千歳川に水がなくなったときだと思え」と豪語していたという。
堀川に金はなくなったが、千歳川は今も豊かな水をたたえている。
伯父によると、堀川の造船所があった江別には、昭和10年代ぐらいまで競馬場があり、近くの飛鳥山には種付け場もあったという。
世は無常。金は天下の回りもの。さあ、今夜は何を食おうか。
島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆~走れ奇跡の子馬~』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。
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