2018年10月09日(火) 18:00
▲フランスから世界に広がったマッシュルームの栽培方法(写真提供:Creem Pan)
ジオファーム八幡平代表の船橋慶延さんの話を聞きながら、なぜマッシュルームは馬の堆肥を使うのだろうか?という素朴な疑問が湧いてきた。
「フランス語でマッシュルームをシャンピニオン・ド・パリというのですが、マッシュルームの栽培方法が確立されたのは、17世紀のフランスだったんです。その頃、フランスでは士官学校や騎兵学校の体制が整えられたのですが、必然的にそこには馬が集約されて飼育されていたので、そこから安定的に馬の堆肥が出たんですね。馬の堆肥の発酵熱を利用して育苗用の床に使われていたのですけど、その床からキノコがどんどん生えてくるので、そこからマッシュルームの栽培方法が確立されて世界に広がっていったのです」(船橋さん)
日本にも明治初期に、マッシュルームの栽培方法が伝来している。そして千葉県の習志野に騎兵学校ができたことにより、馬がその地に集まってきたため、その周辺にマッシュルーム農場ができたようだ。
「日本では軍馬の資源として、ペルシュロンやブルトンなど種馬をフランスからたくさん輸入していますし、飼育の技術や環境、騎兵技術を含めてフランスから入ってきているんですね。そのような背景からしても、日本においても馬とマッシュルームというのはとても近いと思います」
フランスで行われる凱旋門賞に日本調教馬が毎年のように挑戦しているが、マッシュルームと馬との関係でもわかるように、日本の馬の歴史は実はフランスの影響を色濃く受けているのだった。
ところでマッシュルームは、ワラの床からしか生えてはこないのだという。ジオファームでもワラの床を使いたかったのだが、東日本大震災時の原発事故による放射線セシウムの問題があり、床にワラを使用することを断念した。「地熱理解促進関連事業支援補助金」により、ハード面では整備され、そこで働く人員も確保していた。その上、事業が回っていかないと補助金を返還しなければならない。いきなりピンチに襲われた船橋さんは、苦肉の策としてオランダからマッシュルームの菌床を仕入れて、まずは安定した栽培を確立させることにした。
「基本的には現在もこれは続いています。仕込む堆肥はだいたい1.3から1.5トンくらいいります。1か月かければたまる量なのですが、それだと途中で分解が始まってしまって、結果的にマッシュルームがあまり出ない床になってしまうんです。実際には1週間くらいでそのくらいの量が集まらないとダメなんですね。それには40頭くらい馬が必要なのですが、今、ウチにいるのはその半数くらいですし、規模感も合わない。とはいえ今は出荷が追いついていない状況ですし、自分たちで床作りをして万が一収穫量が落ちたら欠品を起こしまくってしまってご迷惑をおかけしてしまうことになります」
そのあたりが今後の課題とも言えるが、来年には状況が変わってきそうだ。
「茨城県の美浦村でもマッシュルームを作られている千葉県の芳源(よしもと)マッシュルームさんが、大きなマッシュルームの床を作る場所を持っていて、そこで菌床を作ってもらって確保できるようにする予定です。そうなれば海外からわざわざ買わなくても良いですし、生産も安定します」
八幡平とはまた別の場所と繋がることで、更に夢は広がる。
「今考えているのは、例えば芳源マッシュルームさんの方に、引退した馬たちの拠点となる牧場を作って、そこの敷き藁を出して芳源さんのプラントに入れて床作りをして、そこから各地でマッシュルームを作れるようにしていく。各地にそういう拠点を作って、八幡平以外にも堆肥馬が暮らせる環境づくりを横に広げていけたらと考えているんです」
そうなれば引退した競走馬たちが生きていく場所も増えることになる。馬たちの命は繋がり、人間たちにはおいしいマッシュルームが食べられる。何と幸せなことだろう。船橋さんの描く夢が1日も早く、実現してほしい。
さてそんな船橋さんのジオファーム八幡平には現在、21頭の馬がいて、そのうち11頭がサラブレッドだ。いつも目の届く場所に置いておきたいと願ったグレートカブキ(競走馬名グレイトウォール)は、残念ながらもうこの世にはいない。
「2013年の冬に亡くなってしまいました。23歳でした。その馬の面倒を見れる環境を作ろうと思っていましたので、一気にやる気がなくなってしまったこともありました。丁度忙しくなり始めた時で、自分がちゃんと管理できていなかったなという思いがありますね」
▲現在21頭の馬が暮らすジオファーム八幡平(写真提供:Creem Pan)
まだ愛馬の死をどこかで引きずっているという船橋さんに、グレートカブキの思い出を尋ねた。
「乗ると結構ホットな馬で、くしゃみひとつですっ飛んでいくような、とにかく走る馬でしたね。走るからこそ、競技でも結構上に行けたのですけどね。僕は130cmの障害を飛んでいましたが、広田龍馬さんに乗ってもらった時には140cmも飛んでいて、頑張ってくれました。乗るとホットでしたが、降りると穏やかになって、オンとオフがものすごい激しい子でしたね。人が乗っていないとすごいのんびりさんで、競走馬時代はおじさんというあだ名がついていたみたいです(笑)。競技会に出ていた頃は、餌も濃かったこともあってカッカカッカしていてイケイケの馬だったので、競技会のアナウンスではいつも荒事だ荒事だと言われていました(笑)」
※荒事とは歌舞伎用語で、歌舞伎の特殊な演技の演出の1つで、超人的な力を持つ主人公がその勇猛ぶりを見せること
その愛馬がいなくなっても、船橋さんの前にはキサキタ(セン11・父スキャン)やモリノミヤコ(セン16・父タヤスツヨシ)などのサラブレッドをはじめ、道産子やセルフランセの血が入った乗用馬などたくさんの馬たちがいた。自分が動かないと餌を与えられない。ともすれば落ち込み気味になる気持ちを奮い立たせてくれたのも、また馬という存在だった。
▲▼サラブレットのキサキタ(上)とモリノミヤコ(下)(写真提供:ジオファーム八幡平)
「グレートカブキと仲良くしてくれた仲間がまだ一緒にいるので、その馬たちには良い環境で過ごさせてあげたいなと思っています」
馬たちに愛情を注ぎ、おいしいマッシュルーム作りに邁進する船橋さんの根底にあるのは、愛馬グレートカブキの存在に違いない。
(つづく)
http://geo-farm.com/
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佐々木祥恵
北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。
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