2006年01月10日(火) 23:50
年明け早々、お屠蘇気分が一気に吹き飛ぶ衝撃のニュースが聞こえてきた。ドバイの国王にして、UAEアラブ首長国連邦の副大統領を務め、なおかつ、競走馬のオーナーブリーダーとして四半世紀に渡って世界の競馬界をリードしてきたシェイク・マクトゥーム・アル・マクトゥームが急逝したのである。1月4日、セリ市場の「マジックミリオン」に参加するために訪れていたオーストラリアのゴールドコーストで心筋梗塞に見舞われ、帰らぬ人となったのだ。享年62歳だった。
1943年に、ドバイの国王であるシェイク・ラシッド・ビン・サイード・アル・マクトゥームの長男として生まれたシェイク・マクトゥーム。幼時より聡明な子で、10代の頃より父の右腕として政治向きの討議にも参画していたという。当時この地域は英国の統治下にあり、現在UAEを形成する7つの首長国が緩やかな連邦の形成に向けて動き出していた時期であった。同時に、この地域が近代化へ向けて動きはじめた頃でもあり、ドバイで言えば国際空港の建設や水道供給のシステムを構築しようとしていた時期であった。言わば国の礎が築かれていた頃で、英国のケンブリッジ大学で学問を修めた後に帰国したシェイク・マクトゥームは、現在の連邦最高評議会に相当する会議にも父とともに出席し、地域の指導者の1人として職務を全うしてきた。
1971年12月2日にイギリスが撤退し、UAEが建国されると、シェイク・マクトゥームは若干28歳にして国の第一首相に就任。1990年に父が他界すると、ドバイの国王とUAEの副大統領の座を受け継ぐことになった。その後の彼が、超近代的国家としてのドバイの建設に、指導的立場で関与してきたことは言うまでもない。一方で、博愛主義者としても知られる彼は、学校の設立をはじめとした教育制度の充実に力を注いだ他、身体障害者のための施設や第三世界の孤児を受け入れる施設の建設などを手がけてきた。
シェイク・マクトゥームが競馬の世界に入り込みはじめたのは、UAE建国後、国の事業がある程度軌道に乗ったことが確認できた1970年代後半だった。初めてヨーロッパで競走馬を所有したのが、1977年。生産牧場であるゲインズボロウ・スタッド(英国ニューバリー近郊)を購入したのが、1980年のことであった。シェイク・マクトゥームのゲインズボロウ・スタッドは、英ダービーや凱旋門賞を制して「神の子」と呼ばれたラムタラ、2年連続ワールドシリーズチャンピオンとなったファンタスティックライトらを輩出。生産者としては、弟のシェイク・モハメドよりも優れた感覚を所持していたと見る関係者も多い。馬主としては、1982年のセントレジャーをタッチングウッドで勝ったのがクラシック初制覇。以後、愛ダービーやキングジョージを制したシャリーフダンサー、2000ギニーやQE2を制したシャディード、チャンピオンスプリンターのカドゥージェネルー、牝馬ながら英チャンピオンSを制したハトゥーフ、英オークスと愛ダービーを制した女傑バランチーンなど、数多くの名馬を所有してきた。
さて、競馬サークルにおける差し当たっての最大の関心事は、シェイク・マクトゥームが世界各国に所有する200頭余りの現役馬、生産牧場、繁殖牝馬たちが、今後どうなるかだ。その行方の鍵を握るのが、シェイク・マクトゥームの弟で、亡くなった兄の跡を継いでドバイの新しい国王に就くことになった、シェイク・モハメドであることは間違いあるまい。今後、シェイク・モハメドを中心とした一族の話し合いでどんな結論が出されるか、おおいに注目したいところである。
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合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。