2006年02月28日(火) 23:51 0
タイムスケジュール的に言って先週はファシグティプトン・コールダーのプレビューに言及せざるを得ず、いささか旧聞に属することになってしまったが、今週は2月17日にお亡くなりなった馬主ロバート・ルイス氏について触れさせていただきたい。このままスルーをしてしまうには、あまりにも魅力的な人物だからだ。氏の所有した代表馬に、97年のケンタッキーダービー馬シルヴァーチャーム(Silver Charm)や、99年のケンタッキーダービー馬カリズマティック(Charismatic)がいるが、まさにcharmingな人柄で、周囲の人々にとってcharismaticな存在だったのが、ルイス氏であった。
前記した2頭のダービー馬の他、G1・11勝を挙げて歴代賞金女王となった牝馬チャンピオンのセリーナズソング、スプリントチャンピオンのオリエンテイト、2歳チャンピオンのティンバーカントリーやフォークロアなど、ルイス氏の緑と黄色の横縞の勝負服は数多くの名馬の背中にあって、世界の競馬シーンを彩ってきた。その印象が極めて鮮明かつ強烈であったことに加えて、氏のいかにも好々爺然とした外見から、『古くからの馬主さん』というイメージのあったルイス氏だが、初めて単独で馬を持ち、緑と黄色の横縞の勝負服が走ったのは、1990年のことであった。90年と言えば、氏が66歳になった年である。
1924年5月12日にカリフォルニアで生まれたルイス氏。父に連れられた初めて競馬場に出向いたのは、10歳の時であった。出向いた先は、サンタアニタ。それは、この年開場したばかりのサンタアニタが、初めての週末開催を迎えた土曜日であった。すなわち、ルイス氏の競馬の歴史は、サンタアニタの歴史とぴたり合致するのである。サンタアニタ開場の頃を知っている、というだけで尊敬に値するが、この人物が凄いのはそれからだ。10歳の時に競馬の魅力にとりつかれた男が、飲料水の卸売りで財を成し馬主になったのが、66歳の時なのだ。男は、56年後という年月をかけて少年の頃の夢をかなえたのである。いい話ではないか。
あれは、数年前のサラトガセールの時であった。サラトガセールはバイヤーたちが着飾って会場に来るのが慣例で、名のある馬主さんたちが特大のリムジンの後部座席から降り立つ光景が、まるでハリウッドの授賞式のような雰囲気を醸しだすセールなのだが、そんな中、自ら車を運転して来て会場に降り立ったのが、ルイス氏だった。当時、既に70代半ばであったはずである。いささか驚いた私が地元の関係者に聞くと、「そういう人なんだよ」という説明を受けた。"セレぶる"ことを好まず、競馬場でも気さくにファンを会話を交わす馬主さんであった。
競馬場やセリ会場で見かけるルイス氏の横には、常に妻ビヴァリーさんの姿があった。オレゴン大学のキャンパスで出会った二人。デートの場所は大概、競馬場だったというから、ビヴァリーさんも根っからの競馬好きだったのだろう。ちなみに服色の緑と黄色は、オレゴン大学のスクールカラーからとったものだそうだ。
あれは、カリズマティックが2冠目のプリークネスSを制した時であった。愛馬のゴールを見届けた直後、「さあニューヨークに行こう!、ニューヨークに行こう!」と叫びながら、興奮のあまり地面にへたり込んでしまったルイス氏を、半ば笑顔で半ば心配顔でビヴァリーさんが助け起こした光景を、今も鮮明に覚えている。まさしく、絵に描いたような「夫唱婦随」の二人だったのだ。
ところが昨年10月、フォークロアがBCジュヴェナイルフィリーズを制した日のベルモントパークにルイス氏の姿がなく、周囲を「おやっ?」と思わせた。更に今年1月23日、フォークロアが2歳牝馬チャンピオンに選出されたエクリプス賞の授賞式にもビヴァリーさんが単独で出席され、ルイス氏の体調が気遣われたのだが、持病の心臓疾患を悪化させて亡くなったのが、氏にとって7度めの授賞となったエクリプス賞授賞式の4週間後のことであった。享年81歳であった。
競馬の楽しさと馬を持つことの誇りを体現していたホースマンの死に、世界の競馬サークルは悲しみに沈んでいる。
合田直弘
1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。