2021年11月11日(木) 12:00
「騎手もドライバーも、オリンピックの陸上の100m競走とかに比べると、まだ可能性があるよね。自分の力の延長線上のものを操るスポーツだからさ」
日本人初のフルタイムF1ドライバーとして活躍した中嶋悟さんが、1993年春に行われた武豊騎手との対談でそう言った。
先週、マルシュロレーヌがアメリカのデルマー競馬場で行われたブリーダーズカップディスタフ(ダート1800m、3歳以上牝馬G1)を制したとき、私は冒頭に記した中嶋さんの言葉を思い出した。
F1で表彰台の中央に立った日本人ドライバーも、五輪の陸上100mで表彰台に立った日本人選手もまだいない。
日本人が頂点に立つのは、F1と五輪陸上100mのどちらが先になるだろうか。
同じように、日本馬が凱旋門賞を勝つのと、アメリカのダートG1を勝つのはどちらが先になるだろう――と思っていたら、マルシュロレーヌが快挙を達成した。
私が初めて海外の競馬場を訪ねたのは1990年夏のことだった。武騎手が、前年海外初勝利を挙げた、シカゴから近いアーリントン国際競馬場(当時の名称)に遠征するというので同行取材をしたのだった。以来、毎年夏になると、2週間ほどアーリントンに行くのが恒例になっていた。
初めてアーリントンを訪ねたとき、私は25歳だった。競馬を始めて4年目。好きになった馬が引退して、その仔が出走するのをようやく見られるようになった時期である。
すでにライターとして競馬関連の取材もしており、競馬というものをわかったような気になっていたのだが、それでも、初めて見たアメリカ競馬には衝撃を受けた。
何より驚かされたのは、馬の扱い方だ。まず、調教前の曳き運動を、厩舎内の通路でしていたので、たまげた。馬房の前の通路だからそれほど広くないし、それらの馬房にはまだ馬が入っている。なのに、列を組んでゾロゾロとウォーミングアップしているのだ。ある程度歩かせたら、騎手やエクササイズスタッフ(調教助手)が跨ってまたそこを歩き、人間と同じ出入口から外に出てコースへと向かう。
厩舎には馬を繋ぐ洗い場がないので、どこで洗うのかと思っていたら、厩舎前のスペースで、調教を終えた馬の口をひとりが持って、もうひとりが細長いヘラでサッと洗う。洗い終わるまでが、まあ早いこと。馬がストレスに感じる時間を極力短くするという考え方なのだろう。
女性の乗り手が当時からとても多く、うちひとりは、馬房で横になっていた馬の首を枕にして自分も寝そべり、歌を歌っていた。これが今の時代なら絶対動画を撮ってツイートしていると思う。
放馬しても、調教師や番頭格のアシスタントトレーナーが乗っている「ポニー」と呼ばれるリードホースが体を寄せると、簡単につかまる。ポニーといっても、クォーターホースなどの血が入っている大型馬だ。アメリカのサラブレッドは、早い段階から、ポニーに従うよう教え込まれているのだという。
競馬は凄まじい迫力で、馬群が密集したままコーナーを回り、どの騎手も豪快なアクションで追いながら真っ直ぐ馬を走らせ、それに応えた馬が必死にゴールを目指す。
それを見下ろすスタンドで、美味しい料理を食べながら、レジ脇のマシンで馬券を買って楽しむことができるのだ。
私はいっぺんにアメリカ競馬が好きになってしまった。
アメリカの競馬場はすべて平坦な左回りで、基本的に、コース幅が広く取れ、大回りになり、観客に近い外側にダートコースがあり、内側に芝コースがある。日本とは逆である。
プログラムに距離しか記されていないと、それはダートを意味し、芝の場合は「ターフ」と記される。
そのくらいダートのレースが圧倒的に多く、「メイントラック」と表現されることもある。当然、ビッグレースも芝より圧倒的にダートが多い。
その最高峰と言えるブリーダーズカップのダートのレースを勝ったマルシュロレーヌの功績は、とてつもなく大きい。「快挙」に「スーパー」と「ウルトラ」と「大」をいくつつけてもいいくらいの大仕事である。
「アメリカ競馬の祭典」と呼ばれるブリーダーズカップが創設されたのは1984年のことだった。
「ひとつの競馬場で一日に複数のG1が行われる」という点で新しく、創設時は、ブリーダーズカップクラシック、ターフ、ディスタフ、マイル、スプリント、ジュベナイル、ジュベナイルフィリーズの7レースが一日のうちに開催された。
レース数が増やされたことに伴い、2007年からは2日間にわたって開催されるようになり、今年は初日にG2ひとつを含む5レース、2日目に9レースが行われた。
私が初めて現地で観戦したのはチャーチルダウンズ競馬場で行われた1994年で、そのときはまだ7レースだった。
それだけに、創設時からあったディスタフをマルシュロレーヌが勝ったときは、「えっ、日本が本当にあのディスタフを勝ったの!?」という驚きがものすごく大きかった。
もちろん、その2時間前にブリーダーズカップフィリー&メアターフ(芝2200m、3歳以上牝馬G1)を制し、日本馬としてブリーダーズカップ初制覇をなし遂げたラヴズオンリーユーも、勝利に導いた川田将雅騎手の手綱さばきも素晴らしかった。間違いなく、競馬史に残る偉業をやってのけた。
アメリカは、ダートに比べると芝で強い馬の層が薄いので、ブリーダーズカップの芝のレースは、ドバイワールドカップ諸競走や香港カップデー同様、ヨーロッパの強豪との争いになる。
それはアメリカ側も承知のうえで、芝のレースは「アメリカの牙城」というより、豪華ゲストによってイベントを盛り上げるためのもの、という感覚だろう。
だが、ダートに関しては事情が異なる。
アメリカでやる限り、ほかのどの国にも絶対に負けないようにするのがアメリカの手法で、競馬もモータースポーツも、「アンチ・ヨーロッパ」が発想のスタート地点になっている部分がある。芝がほとんどで左右どちらの回りもあり、アップダウンの多いヨーロッパの競馬場と、前述したアメリカの競馬場の構造を比べてもらうとわかるだろう。モータースポーツでも、複雑な形状でブラインドコーナーの多いF1に対し、アメリカ最高峰のインディ500は、競馬場のような楕円形のオーバルコースで行われる。
そして、MLB(メジャーリーグ・ベースボール)がそうであるように、北米だけの戦いであっても、頂点に立てば「ワールドチャンピオン」と言ってのける。
アメリカのダートでワールドチャンピオンになることができるのは北米の馬だけだと思われていたが、その牙城をマルシュロレーヌが崩したのだ。
それも、日本のダート界で頂点に立っていたわけではなく、門別のブリーダーズゴールドカップをステップに臨んで、ダート牝馬のワールドチャンピオンになったというところが、何とも言えないほどいい。
参戦を決断した矢作芳人調教師と、オーナーのキャロットファームの炯眼と言うほかない。
マルシュロレーヌが結果を出したことにより、日本のホースマンのアメリカのダート参戦についての見方が変わってくるのではないか。
前にも本稿で述べたように、ダートといっても日本の「砂」とは異なり、やわらかい「土」というべきものだ。クッションも脚抜きもいいので日本の芝と変わらないくらい速い時計が出るかわりに、雨が降ると泥んこ馬場に一変する。「スクラッチ」という直前の出走取消が認められているのは、それも一因になっていると思われる。
そうしたサーフェスであるから、芝でも3勝するほどのスピードがあるマルシュロレーヌが力を出せたのだろう。
ソダシがチャンピオンズカップへの参戦を表明したが、あの馬などは、いかにもアメリカのダートが合いそうだ。
長くなったが、最後にもうひとつ。マルシュロレーヌの7代母クインナルビーは、オグリキャップの5代母でもある。私たちを30年以上前に熱くさせた日本の最強馬の血は、やはりワールドクラスのポテンシャルを秘めていたのだ。それを証明してくれたことに関しても、マルシュロレーヌにお礼を言いたい気分だ。
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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