2023年09月11日(月) 12:00
長い競馬史の中で繰り広げられた、熱戦の数々。
サラブレッドと騎手が“人馬一体”となってターフを駆け抜ける姿に、人々はいつも魅了されてきた。馬が人を背に乗せて走ることを“当たり前の景色”だと思っている方も多いのではないだろうか。競馬場に行けば騎手が跨ってレースをしているし、乗馬クラブに行けばライダーが跨って障害を飛んでいる。馬に馴染みの無い方であれば、ある意味自然な解釈かもしれない。
しかし、本来、野生動物である馬は人を乗せることを知らない。
競馬のため品種改良を重ねられたサラブレッドですら、生まれながらにして人が乗ることはできない。“人馬一体”の裏には、幼少期から始まる、馬と人の涙ぐましい努力が隠されているのだ。
今回は、北海道新冠郡新冠町に所在する競走馬生産牧場・新冠橋本牧場代表の橋本英之さんに、人と馬の関係性の作り方について話を伺ってきた。
写真:新冠橋本牧場の看板(本人提供)
写真:代表の橋本英之さん(本人提供)
1966年に設立した新冠橋本牧場は、日本有数の馬産地で57年続く老舗の生産牧場だ。現在は45頭の繁殖牝馬を保有し、当歳・1歳も合わせると計100頭ほど繋養している。生産馬の販売は、市場取引4割、庭先取引6割といった割合だ。
同牧場では、繁殖牝馬の管理に加え、仔馬が生まれてから離乳までの初期育成、育成牧場に移って騎乗馴致を行うまでの中期育成を行っている。この『初期育成』『中期育成』という単語は、どちらも聞き馴染みの無い方が多いかもしれない。
では『初期育成』とは、果たしてどのようなことを行っているのだろうか。
「生まれたての馬は本当に何もわからない状態で、体すら触らせないんですよね。 ですので、最初は本当に嫌がるんですけども、毎日優しく丁寧に触って、まず『人が触っても怖くないよ』と教えてあげることから始めます。それが、初期育成です」
写真:生後間もなく体を触られる当歳馬(本人提供)
競走馬は、早ければ2歳の夏からデビューを迎える。そのたった2年前の段階では、まだ人に触られることすら拒否する状態なのだという。これだけでも、人馬一体が当たり前ではないことを理解いただけるだろう。
そして仔馬は、生まれた初日こそ馬房で母馬と過ごしているが、生後2〜3日目で初めての放牧を迎える。
まずはパドックと呼ばれる小さな放牧場に出し、数日様子を見ながら少しずつ段階を踏んで、徐々に広い場所へと放していく。その際、仔馬に初めて無口と曳手をつけて歩かせるのだという。
「もちろん最初は分かっていないので、曳手を曳いたからといって、歩いてくれるわけではありません。大抵の馬は思う様に歩いてくれず反抗するんですよね。ですので、1人が横に立って身体を支え、もう1人が後ろに立って前に進むように促してあげます」
触られることにも慣れていない馬が、曳手を曳いても付いてくるはずがない──。
人と一緒に歩くことを覚えさせるのも初期育成の一環なのである。
写真:曳手で歩く練習をする当歳馬(本人提供)
初期育成においては、仔馬の時から曳手をつけ、人の近くでしっかり曳くことも大事だが、その前に最も大事なことがある。それは、先述した「人に触られることに慣れる」ことだという。
「馬は慣れる生き物です。だからこそ毎日しっかり体の隅々まで触ってあげて、人に触られるということに慣れてもらい、どこを触られても大丈夫という状態にしてあげることが重要です」
これは、馬と人の関係性を構築することにおいて土台となる基礎の部分であり、今後の扱いやすさにも大きく影響してくるという。
写真:脚部をブラッシングされる当歳馬(本人提供)
「特に脚は、後々に装蹄や削蹄をする際に触られる部分でもありますし、慣れてもらわないと大変です。装蹄・削蹄のために脚を上げる練習なども含め、念入りに取り組んでいます」
写真:当歳馬の削蹄(本人提供)
犬や猫と暮らす方であれば、爪切りの大変さをご存知だと思う。削蹄も同じことで、幼少期に始まり、長い現役競走馬の間、そして引退後も続く生活習慣の一部であり、削蹄時には脚を上げて静止しなければならない。そういった事を学ぶのも初期育成において大切なことなのだ。ただこれは、どこまでやるかのバランスが非常に難しいのだという。
「多少嫌がっても慣れてもらうために続けるのですが、馬があまりにも『イヤだ!』と思いすぎると、次の日から人に近寄ってこなかったり、人を見るだけで逃げてしまったりします。逃げちゃったからといって、『じゃあ、やめよう』と止めてしまうと、今度は『逃げたら触られなくなるんだ』と思ってしまいますから……」
一度イヤなイメージが付いてしまうと、警戒されて近づくことが難しくなる場合もある。だがそう言ってあまり触らないようにすると、それはそれで馬がいつまで経っても慣れてくれない。この塩梅が、非常に難しいのである。
「例えば、最終的な目標が『10』だとします。昨日『2』まで進んだから、今日は『3』にチャレンジしようと思っても、馬が嫌がって中々進まないのであれば、その日は『2』で終わっておくのも一つの選択肢です。そこで無理矢理やってしまうと、また『1』や『0』に戻ってしまうなんてこともあるので、『昨日よりも悪くなっていなければOK』くらいのスタンスでやっています」
馬の性格に合わせて、一歩ずつ地道に積み重ねていく。長い時間をかけ、やっと馬の信頼を得ることができる。初期育成の段階では、長い目で見てあげて根気強く接することが、結果として将来の“扱いやすさ”にもつながるのだ。
まだ人との触れ合いを知らない仔馬に、人と生きていくことを教える初期育成。
当然、人からの接し方も、重要なポイントになってくる。
「馬がパニックになったときに、人もテンションが上がって『ワーッ』となると、それが馬にも波及してしまいます。ですので、人間はなるべくフラットな優しい気持ちで、ずっと同じように接してあげることが大切です。そうすると段々馬も人に慣れてきて、『もしかして触られても大丈夫なのかな』と、“ふと”思う時があるんですね。急に大人しくなるというか、観念したな、諦めたな…という状態というか。そうした、ある種の『納得したんだな』というところで褒めてあげて、しっかり終わってあげるのが大切です」
何事も止め時が肝心だ。良い終わり方をすれば、次の段階へもスムーズに進むことが出来る。では、前述のような仔馬に何かを教える際、仔馬と人はどういった関係性なのだろうか。
「仔馬は、ちょっとしたことですぐ怯えたり、敵対心を持ったりしてしまいます。なので近い関係性と言いますか、なるべく安心できるようなフラットな関係性を心がけています」
写真:曳手をつけて駐立する当歳馬(本人提供)
また、仔馬に触れる際は、母馬へのケアも大切になるという。
「馬によっては自分の子供を触れさせない、人に近づけさせないというように子供を守る母親もいます。そういう部分にも気を付けながら、母馬を刺激しすぎないようにしていますね」
写真:放牧地での親子、母馬が鋭く目を光らせている(本人提供)
ここもバランスが難しいところで、母馬を刺激しないように気を遣って仔馬を放っておくと、仔馬と人の信頼関係はいつまでも醸成されない。そのため、仔馬が生まれる前から、母馬と人の間で信頼関係を作っておくことが重要となる。
つまり、「人は危ない生き物じゃないよ」と分かってもらえるように普段から接しておくことで、いざ仔馬が生まれた時も、同じ“仲間”として認識してくれるのだ。そして、そこを基盤としてスムーズに初期育成を進めることが出来るのである。
ただ、仲間とは言っても、あまりにも近しい関係性になりすぎることは、人にとって危険になり得る場合があるという。
「あまりにも関係性が同じくらいだと、逆に向こうが強く出てきてしまう場合もあります。人を見下す…ではないですけど、こちらに対して上から出てきたときは、身体も大きく力も強いので、人にとって危険になります。ですから、やや人間の方が立場としては上なんだという関係性になることを心がけています」
母馬ともなると、その体重は500gにも600kgにもなる。一蹴りでも浴びれば、大怪我につながる体格差といえる。だからこそ、そこには絶妙なバランスの関係性が求められる。
写真:人との関係性を学ぶ当歳馬(本人提供)
上述の上下関係についてだが、仔馬に対しても意識しなければならない。
ただ、ここのバランスも非常に難しいものがある。
「普段は仲良く接するけども、ダメな時は、しっかり怒ってあげることが大切です。
このバランスも難しいところで、あまり人間が上に立ちすぎて、何でもかんでも支配しようとすると、それはそれで不信感に繋がって、馬と人の距離感が遠くなってしまいます」
距離感が遠くなってしまうと、また信頼関係を構築し直すところから始めなければならない。スムーズに初期育成を進めていくためには、ここも重要なポイントだ。
──では、その絶妙なバランスのカギを握る“馬への怒り方”について、新冠橋本牧場ではどのような方法を採っているのだろうか。
「最初にダメなことをした時は、声で伝えます。その際に曳手がついていれば、軽く引っ張るなどして、“グッ”とコンタクトしてあげるんです。例えば、勝手にどこかへ行こうとしたら、その瞬間に止めてあげるような感じです」
この怒るという行為は、馬が成長してくると更にその重要さを増す。
というのも、人に慣れる段階をクリアするタイミングは、ちょうど当歳馬が離乳を迎える時期と重なってくる。この頃になると小さかった仔馬も成長し、その体重は250kg〜300kgまでに増加する。それでいて尚フラットな関係性を続けていると、先述の母馬との関係性と同じく、人に危険が及ぶ可能性があるのだ。
「離乳が出来る頃になると、もう向こうの方が力も強いですし、今までの関係性のままでは人も危なくなります。なので『人間がリーダーだよ』と少しずつ教えてあげることが大切になってきます」
写真:離乳時期の当歳馬(本人提供)
ダメな時はダメだとしっかり怒り、人の方が上の立場だと徐々に教えることが、安全面を考えても重要になってくるのだ。
そして馬を怒る時、最も大切なことがあるという。
それは“タイミング”だ。
「馬とは会話ができないので、人のように、なぜ怒っているのかを言葉で伝えることができません。ですから、怒っている理由を理解してもらうためには、タイミングが一番大切になります。馬は頭のいい動物ですから、ダメなことをした瞬間に怒ってあげると『ああ、今のがダメだったんだ』と学んでくれます」
これは犬などの“しつけ”にも共通していることだ。
後から怒っても、当事者は『何もしてないのに怒られた』と思うだけで、何も学んではくれない。逆にその事が不信感へと繋がり、心の距離が離れてしまうこともある。
一方で、怒ってばかりでは、これもまた不信感へとつながる。
ちゃんと出来た時には、しっかりと褒めてあげることで、「この指示が出たら、この行動を取ればOK」というように学んでくれるのだ。
アメとムチ、どちらもバランスよく用いることが、より良い関係性を構築するための秘訣となっているのだ。
写真:馬を褒める橋本さん(本人提供)
ここまで人と馬の関係性、その築き方について話を伺ってきたが、新冠橋本牧場では、馬への接し方だけではなく、“牧場全体の雰囲気”についても気を配っている。一見すると全く関係のないことに思えるが、実際は馬にも大きく影響する部分なのだという。
「馬と接する人が"おっとり"しているというか、牧場の雰囲気が良ければ、馬も大人しく“のんびり”とした雰囲気になってくれるんです。逆に、スタッフが仕事に追われて、“ピリピリ”、“イライラ”していると、馬にもその雰囲気がすぐ伝わってしまいます。だから牧場全体の雰囲気には気を配っているというか、良くしようと心がけていますね!」
感受性が高い仔馬であればなおさら、人の雰囲気を察知し、影響を受けることも多いだろう。やってはいけないことだが、“イライラ”していると、その流れで馬にきつい態度をとってしまうこともあるかもしれない。
しかし、それまで日々積み重ねてきた信頼関係も、理不尽な接し方や雰囲気の悪い接し方をすることで一気にリセット、もしくはマイナスになってしまうことがあり得る。それは、断じて避けなければならない事象だ。だからこそ、人の雰囲気については特に気を配っておく必要があるのだ。
写真:馬の様子を伺いながらブラッシングをするスタッフ(本人提供)
(後編へ続く)
取材協力:
橋本 英之
(有)新冠橋本牧場
取材・文:片川 晴喜
デザイン:椎葉 権成
協力:緒方 きしん
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
【記事監修】引退馬問題専門メディアサイト
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