2023年09月07日(木) 12:00 44
バスケットボール男子日本代表がワールドカップで3勝2敗の成績をおさめ、来年のパリオリンピックへの出場権を獲得した。3月のWBC(ワールドベースボールクラシック)もそうだったように、レベルの高い国際大会のガチンコ勝負は、やはり面白い。
競馬の国際大会というと、日本では、3月のドバイワールドカップデー諸競走と12月の香港国際競走が最もなじみ深く、そこに2月のサウジカップデーが加わってきた。10月の凱旋門賞や11月のブリーダーズカップも当初から国際レースではあるが、招待レースでないし、ドバイや香港、サウジのそれとは別種である。
戦後、日本馬が初めて海外に遠征したのは1958(昭和33)年で、日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念などを制したハクチカラが、主戦騎手の保田隆芳とともにアメリカ西海岸に渡った。今から65年前のことだ。
その後、日本馬は1960年代、70年代にも海外遠征に出つづけた。当時、日本馬が最も数多く参戦したのは、アメリカ・ローレル競馬場(当時の名称)で行われた国際招待レースのワシントンDCインターナショナルであった。1962年のタカマガハラ(10着)から1980年のハシクランツ(8着)まで、のべ9頭が出走したのだが、1967年にスピードシンボリが8馬身1/4差の5着になったのが最高着順で、ほかはみな20馬身以上離される大敗を喫した。
危機感を抱いたJRAや日本のホースマンは「世界に通用する強い馬づくり」を目標とするようになる。その実現に向けた方策のひとつが、1981年11月22日に第1回が行われたジャパンCの創設だった。
今年は、詩人・劇作家・競馬コラムニストとして活躍した寺山修司の没後40年ということもあって、私は寺山の競馬エッセイを再読することが多くなっている。
そのなかに、第1回ジャパンCを迎えるにあたって、寺山の思いをつづった作品もある。国内では初めてとなる競馬の国際大会だけに、わからないことだらけだ。出走馬の走破時計を見ても、コースの性質がまるで違うし、そもそも2400mを走ったことのない馬もいる。それでも、2000mの時計を比べると、トップと2番目は日本馬だ。寺山が来日を楽しみにしていたアメリカのターフの王者ジョンヘンリーなどのいない、二流以下の馬ばかりなのだから、チャンスはある、と考える。
そんな寺山が思い起こしたのは、1949年、14歳の秋に見た日米野球だった。スターを揃えた読売巨人軍も、他チームの選手を加えたプロ野球の選抜チームも、アメリカ3Aのサンフランシスコ・シールズにまったく歯が立たなかった。
「ことしのアメリカ、カナダの馬は、もしかしたら、サンフランシスコ・シールズなのではあるまいか?」(戦いすんで日は暮れて『競馬放浪記』所収)
残念ながら、そのとおりだった。日本馬は敗れた。勝ったのはアメリカの5歳牝馬メアジードーツ。2分25秒3のレコードを叩き出した。4着まで外国の馬が占め、日本馬で最先着したのは5着のゴールドスペンサーだった。
「あれが、野球元年だったとしたら、今日のは競馬元年だ。やっと、鎖国がとけて強い馬が来日してくるようになったのだ」(同前)
この第1回ジャパンCが行われた1981年の日米野球では、日本のプロ野球が、メジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズを打ちのめしたり、完封したりできるようになっていた。
日本のプロ野球がシールズに惨敗してからロイヤルズに連勝するまで32年かかった。時間はかかったが、プロ野球の現在を思えば、競馬の将来も明るいはずだ、と寺山は考える。
第1回ジャパンCが行われた1981年の32年後は2013年。ジェンティルドンナがレース史上初の連覇を果たした年だ。外国馬の勝利は2005年のアルカセットが最後になっている。それより前、1990年代の終わりごろから、ジャパンCでは、日本馬が圧倒的な優位を誇るようになっていた。
寺山は1983年5月4日に世を去った。翌84年、カツラギエースが日本馬として初めてジャパンCを勝った。
もし寺山が、そのジャパンCや、今の日本馬の海外での活躍──今年のドバイシーマクラシックをイクイノックスが圧勝したシーンなどを見たら、どんな言葉を残しただろうか。
先日のバスケットボールの男子ワールドカップで、日本はフィンランドを逆転し、ワールドカップ(前身の世界選手権を含む)で17年ぶりとなる勝利をおさめた。これは同大会で11戦全敗だったヨーロッパ勢からの初勝利でもあった。ヨーロッパ勢との初対決は1963年のブラジル大会で、ユーゴスラビアに63対95で敗れている。ちょうど60年後、ついに牙城を崩したのだ。寺山風に言うと、日本の「バスケ元年」は、ユーゴに惨敗した1963年、ということになるのか。
ヨーロッパ勢の壁というと、昨年までの101回で、ヨーロッパ調教馬以外は勝っていない凱旋門賞が思い起こされる。日本馬が初めて参戦したのは1969年、「ミスター競馬」野平祐二が手綱をとったスピードシンボリで、着外に終わった。
毎年、いや、年に何回も言っているが、絶対に日本馬は凱旋門賞を勝つ。ここ数年あまりに馬場状態が悪く、日本馬陣営に「凱旋門賞離れ」のムードが出てきたような気もするのだが、それでも、遠からず勝つだろう。
歴史の目撃者になるのはいいものだ。と、テレビ観戦ではあったが、バスケットのフィンランド戦を見て思った。
久しぶりに、まともなことを書いたような気がする。が、あまりにまともすぎると、注目数もアクセス数も伸びないのが悩ましい。
反響を読むのは難しく、最近、私のSNSの書き込みで一番反響があったのは、不味いラーメン屋についての投稿だった。「いいね」の数が多かったわけではなく、知り合いから「行ってみたいんですけど、どう思いますか」という問い合わせがびっくりするほど多かったのだ。まあ、ラーメンというのは、不味くつくるほうが大変なくらいだから、怖いもの見たさもあるのだろうが、私は全員に「やめたほうがいい」と言っている。「あんなに不味いのに、繁盛しているんですよ」と言うと、余計に興味を持たれる。
どうせなら、「美味い」と書いた店について訊いてくれたらいいのに、それはほとんどない。私は信用されていないのだろうか。キリがないので、このくらいにしておく。
島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆~走れ奇跡の子馬~』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。
関連サイト:島田明宏Web事務所